・・・毎日新聞社は南風競わずして城を明渡さなくてはならなくなっても安い月給を甘んじて悪銭苦闘を続けて来た社員に一言の挨拶もなく解散するというは嚶鳴社以来の伝統の遺風からいっても許しがたい事だし、自分の物だからといって多年辛苦を侶にした社員をスッポ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・障碍を成さしむるも 古仏因縁を証する無かるべけん 明珠八顆都て収拾す 想ふ汝が心光地に凭て円きを 里見義成依然形勝関東を控ふ 剣豪犬士の功に非ざる無し 百里の江山掌握に帰す 八州の草本威風に偃す 驕将敗を取るは車戦に由る 赤・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・このごろ、あなたの少しばかりの異風が、ゆがめられたポンチ画が、たいへん珍重されているということを、寂しいとは思いませんか。親友からの便りである。私はその一葉のはがきを読み、海を見に出かけた。途中、麦が一寸ほど伸びている麦畑の傍にさしかかり、・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・山海万里のうちに異風なる生類の有まじき事に非ず」と云ったとしてある。その他にも『永代蔵』には「一生秤の皿の中をまはり広き世界をしらぬ人こそ口惜けれ」とか「世界の広き事思ひしられぬ」とか「智恵の海広く」とか云っている。天晴天下の物知り顔をして・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・大概の家では女中らはもちろん奥さんや娘さんまでのぞきに出て来て、道化た面をかぶった異風な小こじきの狂態に笑いこける。そこには一種のなんとなく窈窕たる雰囲気があったことを当時は自覚しなかったに相違ないが、かなりに鮮明なその記憶を今日分析してみ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・この異風な物売りはあるいは明治以後の産物であったかもしれない。「お銀が作った大ももは」と呼び歩く楊梅売りのことは、前に書いたことがあるから略する。 しじみ売りは「スズメガイホー」と呼び歩いた。牡蠣売りは昔は「カキャゴー」と言ったもの・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・馭者が二人、馬丁が二人、袖口と襟とを赤地にした揃いの白服に、赤い総のついた陣笠のようなものを冠っていた姿は、その頃東京では欧米の公使が威風堂々と堀端を乗り歩く馬車と同じようなので、わたくしの一家は俄にえらいものになったような心持がした。・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・千金丹を売るものが必手に革包を提げ蝙蝠傘をひらいて歩いたのは明治初年の遺風であろう。日露戦争の後から大正四五年の頃まで市中到処に軍人風の装をなし手風琴を引きならして薬を売り歩くものがあった。浅井忠の板下を描いた当世風俗五十番歌合というものに・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・江戸時代の遺風としてその当時の風呂屋には二階があって白粉を塗った女が入浴の男を捉えて戯れた。かくの如き江戸衰亡期の妖艶なる時代の色彩を想像すると、よく西洋の絵にかかれた美女の群の戯れ遊ぶ浴殿の歓楽さえさして羨むには当るまい。 ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・畢竟するに其親愛が虚偽にもせよ、男子が世にもあられぬ獣行を働きながら、婦人をして柔和忍辱の此頂上にまで至らしめたるは、上古蛮勇時代の遺風、殊に女大学の教訓その頂上に達したるの結果に外ならず。即ち累世の婦人が自から結婚契約の権利を忘れ、仮初に・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫