・・・さればこそ、武士はもとより、町人百姓まで、犬侍の禄盗人のと悪口を申して居るようでございます。岡林杢之助殿なども、昨年切腹こそ致されたが、やはり親類縁者が申し合せて、詰腹を斬らせたのだなどと云う風評がございました。またよしんばそうでないにして・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・ ではなぜ我我は極寒の天にも、将に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依ったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・そして十四、五分の後にはまた翅をはってうなりを立てながら、眼を射るような日の光の中に勇ましく飛び立って行った。 夏物が皆無作というほどの不出来であるのに、亜麻だけは平年作位にはまわった。青天鵞絨の海となり、瑠璃色の絨氈となり、荒くれた自・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・笠井はくどくどとそこに行き着く注意を繰返して、しまいに金が要るなら川森の保証で少し位は融通すると付加えるのを忘れなかった。しかし仁右衛門は小屋の所在が知れると跡は聞いていなかった。餓えと寒さがひしひしと答え出してがたがた身をふるわしながら、・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・、照り続く八月の熱で煮え立って、総ての濁った複色の彩は影を潜め、モネーの画に見る様な、強烈な単色ばかりが、海と空と船と人とを、めまぐるしい迄にあざやかに染めて、其の総てを真夏の光が、押し包む様に射して居る。丁度昼弁当時で太陽は最頂、物の影が・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
この犬は名を附けて人に呼ばれたことはない。永い冬の間、何処にどうして居るか、何を食べて居るか、誰も知らぬ。暖かそうな小屋に近づけば、其処に飼われて居る犬が、これも同じように饑渇に困められては居ながら、その家の飼犬だというの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・「どうして貴方に逢うまで、お飯が咽喉へ入るもんですか。」「まあ……」 黙ってしばらくして、「さあ。」 手を中へ差入れた、紙包を密と取って、その指が搦む、手と手を二人。 隔の襖は裏表、両方の肩で圧されて、すらすらと三寸・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・……第一見えそうな位置でもないのに――いま言った黄昏になる頃は、いつも、窓にも縁にも一杯の、川向うの山ばかりか、我が家の町も、門も、欄干も、襖も、居る畳も、ああああ我が影も、朦朧と見えなくなって、国中、町中にただ一条、その桃の古小路ばかりが・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような烈い中に、疲れて、すやすや、……傍に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお堪らなくって泣きました。」 聞く方が歎息して、「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」 顔見ら・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 岡崎の化猫が、白髪の牙に血を滴らして、破簾よりも顔の青い、女を宙に啣えた絵の、無慙さが眼を射る。 二「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ。」 と嗾る。…… が、その外には何も言わぬ・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
出典:青空文庫