・・・むかし話に漁師伯龍とその妻となった三保の松原の天女の物語があって、それを大正の時代に菊池寛が「羽衣」という短篇に書いた。天女を妻とした漁師伯龍は元来女たらしであったのだが、天女を妻として十日ほどは彼も大満悦であった。天女は美しくて、彼の肉情・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・ 鮮やかな形のうちに清い渋みをたたえたライラック色の花弁は、水のように日を燦かすフレームの中で、無邪気な、やや憂いを帯びた蝶が、音を立てず群れ遊ぶように見えた。 飴緑色の半透明な茎を、根を埋めた水苔のもくもくした際から見あげると、宛・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・ところへは何処へ行きましたか?」と試験官に質ねられて、素直に「銀座へ行きました」と答える。その問答をうちへかえって両親に話すと、父親は直感的に「銀座と云ったのか、それはすこしまずかったかな」と憂いの表情を浮べるので、子も不安がる。そんな思い・・・ 宮本百合子 「新入生」
・・・答えたそうであるが、この如き必然性を欠いた返事に反映している現代日本の教育方針に対する疑いと、日本文化中央連盟の事業の指導精神に対する疑いとは同一の性質をもって、真に日本を愛する良識ある人々の心にある憂いを抱かせるものである。「平凡な母」と・・・ 宮本百合子 「世界一もいろいろ」
・・・ああいう奇妙な常識をはずれた区わけをしたのは、憤りより寧ろ憂いに近い感懐を抱かせたと思う。あれはどうなったのだろう。あれときょうとの間に、どんな健全な経過が辿られたのだろうか。誰しもが知りたいところであろうと思う。 一つの国で、紙の・・・ 宮本百合子 「日本文化のために」
・・・ 女学生たちが、文学書なんかの棚の前で示すこの頃の対商品、対消費物めいた態度については、ほとんどすべての人が憂いと嫌悪とをもって語っている。文学を生み出してゆくものの側からこういう状態をみると、文学作品にたいする感情が婦人雑誌なみのとこ・・・ 宮本百合子 「婦人の読書」
・・・ それ等のことは、又いつかくわしく書く機会もあろうが、ちっとも苦しめたくない、懐しい父が、彼の顔に憂いを漲らせ、悵然とされると、実にたまらない。どうでもよい。早くやめたい、とさえ思ってしまう。 今も、森とした夜の畳の上に、彼が、一日・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・「Oui, beaucoup, Monsieur !」と答えると同時に、久保田はこれから生涯勉強しようと、神明に誓ったような心持がしたのである。 久保田は花子を紹介した。ロダンは花子の小さい、締まった体を、無恰好に結った高島田の巓か・・・ 森鴎外 「花子」
・・・やがて古えの憂いなき森の人がそぞろに恋しくなる。ああなつかしきその代の人となりたい。しかし、今、此宵の月に角笛は響かず。キーツは憧憬の眼を月に向けた。 キーツが何と言おうともこの「自我」なき「山の人」は憐れむべき者である。霊活の詩人が山・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
・・・先生もおそらく後顧の憂いのない気持ちがしていられたことと思う。 小林君の話によると、先生は最後に呵々大笑せられたという。わたくしはそれが先生の一面をよく現わしていると思う。 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫