・・・あかつきばかり憂きものはなし、とは眠いうらみを述べているのではない。くらきうち眼さえて、かならず断腸のこと、正確に在り。大西郷は、眼さむるとともに、ふとん蹴ってはね起きてしまったという。菊池寛は、午前三時でも、四時でも、やはり、はね起き、而・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ わが友 ひとこと口走ったが最後、この世の中から、完全に、葬り去られる。そんな胸の奥の奥にしまっている秘密を、君は、三つか四つ――筈である。 憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥「日本浪曼派」十一月・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
・・・異郷の空に語る者もない淋しさ佗しさから気まぐれに拵えた家庭に憂き雲が立って心が騒ぐのだろう。こんな時にはかたくななジュセッポの心も、海を越えて遥かなイタリアの彼方、オレンジの花咲く野に通うて羇旅の思いが動くのだろうと思いやった事もある。細君・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ 雨気を帯びた南風が吹いて、浅間の斜面を白雲が幾条ものひもになってはい上がる。それが山腹から噴煙でもしているように見える。峰の茶屋のある峠の上空に近く、巨口を開いた雨竜のような形をしたひと流れのちぎれ雲が、のた打ちながらいつまでも同じ所・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・ 神代からなる蒲の穂や菱の浮き葉は、やはり今でも日本にあるにはあるのである。精霊棚を設けて亡魂を迎える人はやはり今でもあるのである。これがある限り日本はやはり日本である。そんな事を話しながら一九三三年の銀座を歩くのであった。 ・・・ 寺田寅彦 「試験管」
・・・ 三 簑虫 八月のある日、空は鼠色に曇って雨気を帯びた風の涼しい昼過ぎであった。私は二階の机に凭れてK君に端書を書いていた。端書の面の五分の四くらいまで書くと、もう何も書く事がなくなったので、万年筆を握ったまま、し・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横断飛行の足がかりにする計画があるということである。うそかもしれないがしかしアメリカ人にとっては充分可能なことである。もしこれが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということも・・・ 寺田寅彦 「天災と国防」
・・・南洋では年じゅう夏の島がある、インドなどの季節風交代による雨期乾期のごときものも温帯における春夏秋冬の循環とはかなりかけ離れたむしろ「規則正しい長期の天気変化」とでも名づけたいものである。しかし「天気」という言葉もやはり温帯だけで意味をもつ・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・ 飛び石のそばに突兀としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・こういう天候で、もし降雨を伴なわないと全国的に火事や山火事の頻度が多くなるのであるが、この日は幸いに雨気雪気が勝っていたために本州四国九州いずれも無事であった。ところが午後六時にはこの低気圧はさらに深度を強めて北上し、ちょうど札幌の真西あた・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
出典:青空文庫