・・・この町でも別にいいというほどの庭ではなかったけれど、乾いた頭脳には、じじむさいような木石の布置が、ことに懐かしく映るのであった。「少し手入れをするといいんですけれど」辰之助はそう言って爪先に埃のついた白足袋を脱いでいたが、彼も東京で修業・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・これから守成の歴史に移るのか。局面回復の要はないか。最早志士の必要はないか。飛んでもないことである。五十歳前、徳川三百年の封建社会をただ一簸りに推流して日本を打って一丸とした世界の大潮流は、倦まず息まず澎湃として流れている。それは人類が一に・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・三時の茶菓子に、安藤坂の紅谷の最中を食べてから、母上を相手に、飯事の遊びをするかせぬ中、障子に映る黄い夕陽の影の見る見る消えて、西風の音、樹木に響き、座敷の床間の黒い壁が、真先に暗くなって行く。母さんお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭・・・ 永井荷風 「狐」
・・・洲崎大門前の終点に来るまで、電車の窓に映るものは電柱につけた電燈ばかりなので、車から降りると、町の燈火のあかるさと蓄音機のさわがしさは驚くばかりである。ふと見れば、枯蘆の中の小家から現れた女は、やはり早足にわたくしの先へ立って歩きながら、傍・・・ 永井荷風 「元八まん」
「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯ある人が二たび三たび微吟して、あとは思案の体である。灯に写る床柱にもたれたる直き背の、この時少しく前にかがんで、両手に抱く膝頭に険しき山が出来る。佳句を得て佳句を続ぎ能わざるを恨みてか、・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ 二 鏡 ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台の中に只一人住む。活ける世を鏡の裡にのみ知る者に、面を合わす友のあるべき由なし。 春恋し、春恋しと囀ずる鳥の数々に、耳側てて木の葉隠・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・悉く照らして択ぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに永く停まる事は天に懸る日といえども難い。活ける世の影なればかく果敢なきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・彼らから見て闇に等しい科学界が、一様の程度で彼らの眼に暗く映る間は、彼らが根柢ある人生の活力の或物に対して公平に無感覚であったと非難されるだけで済むが、いやしくもこの暗い中の一点が木村項の名で輝やき渡る以上、また他が依然として暗がりに静まり・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・ これから日本の開化に移るのですが、はたして一般的の開化がそんなものであるならば、日本の開化も開化の一種だからそれでよかろうじゃないかでこの講演は済んでしまう訳であります。がそこに一種特別な事情があって、日本の開化はそういかない。なぜそ・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・天井に丸くランプの影が幽かに写る。見るとその丸い影が動いているようだ。いよいよ不思議になって来たと思うと、蒲団の上で脊髄が急にぐにゃりとする。ただ眼だけを見張って、たしかに動いておるか、おらぬかを確める。――確かに動いている。平常から動いて・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫