・・・空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、一そ川へでも身・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・しかしもうその時には、何か神々しい彼女の姿は忽ちどこかへ消えてしまいました。うらうらと春の日の照り渡った中に木樵りの爺さんを残したまま。……――昭和二年二月―― 芥川竜之介 「女仙」
・・・ 燕はこのわかいりりしい王子の肩に羽をすくめてうす寒い一夜を過ごし、翌日町中をつつむ霧がやや晴れて朝日がうらうらと東に登ろうとするころ旅立ちの用意をしていますと、どこかで「燕、燕」と自分をよぶ声がします。はてなと思って見回しましたがだれ・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・その麓に水車が光っているばかりで、眼に見えて動くものはなく、うらうらと晩春の日が照り渡っている野山には静かな懶さばかりが感じられた。そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった。 私は眼を溪の方の眺めへ移し・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・路の遠くには陽炎がうらうらとたっている。 一匹の犬が豊吉の立っているすぐそばの、寒竹の生垣の間から突然現われて豊吉を見て胡散そうに耳を立てたが、たちまち垣の内で口笛が一声二声高く響くや犬はまた駆け込んでしまった。豊吉は夢のさめたようにち・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・この時はちょうど午後一時ごろで冬ながら南方温暖の地方ゆえ、小春日和の日中のようで、うらうらと照る日影は人の心も筋も融けそうに生あたたかに、山にも枯れ草雑りの青葉少なからず日の光に映してそよ吹く風にきらめき、海の波穏やかな色は雲なき大空の色と・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・それきりだったのである。うらうらと晴れて、まったく少しも風の無い春の日に、それでも、桜の花が花自身の重さに堪えかねるのか、おのずから、ざっとこぼれるように散って、小さい花吹雪を現出させる事がある。机上のコップに投入れて置いた薔薇の大輪が、深・・・ 太宰治 「散華」
・・・日がうらうらと照り渡って、空気はめずらしくくっきりと透き徹っている。富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・(ああ、マジエル様、どうか憎マジエルの星が、ちょうど来ているあたりの青ぞらから、青いひかりがうらうらと湧きました。 美しくまっ黒な砲艦の烏は、そのあいだ中、みんなといっしょに、不動の姿勢をとって列びながら、始終きらきらきらきら涙をこぼし・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
出典:青空文庫