・・・ 保吉 ええ、震災のずっと前です。……一しょに音楽会へ出かけることもある。銀座通りを散歩することもある。あるいはまた西洋間の電燈の下に無言の微笑ばかり交わすこともある。女主人公はこの西洋間を「わたしたちの巣」と名づけている。壁にはルノア・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・「そうですな。ええ百二十七町四段二畝歩也です。ところがこれっぱかりの地面をあなたがこの山の中にお持ちになっていたところで万事に不便でもあろうかと……これは私だけの考えを言ってるんですが……」「そのとおりでございます。それで私もとうか・・・ 有島武郎 「親子」
・・・「あなた、あの切符は返してしまいましょうかねえ。」「なぜ。こんな事を済ましたあとでは、あんな所へでも行くのが却って好いのだ。」「ええ。そうですねえ。お気晴らしになるかも知れませんわねえ。」こう云って、奥さんは夫に同意した。そして・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・「ええ。畜生奴、うぬまで己の側へ来やがるか。」犬は悲しげに啼いた。これはさ程痛かったためではないが、余り不意であったために泣いたのだ。さて百姓は蹣跚きながら我家に帰った。永い間女房を擲って居た。そうしてたった一週間前に買って遣った頭に被・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、「ええ、さようならばお静に。」「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 今夜は湯に行かない方がええかしら。そうだゆくまい。行かないとしよう。なに行ったってえいさ。いやいや行かない 方がえい。ゆくまいというは道徳心の省作で、行きたい行きたいとするのは性欲の省作とでもいおうか。一方は行かない方がえいとはい・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ こんな傷ならしばっとけばええ。』――」「随分滑稽な奴じゃないか?」「それが、さ、岩田君、跡になれば滑稽やが、その場にのぞんでは、極真面目なもんや。戦争の火は人間の心を焼き清めて、一生懸命の塊りにして呉れる。然し、こおうなればどこま・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「先生、お別れするのはいや。いつまでもこっちにいらしてね。」と、年子は、しぜんに熱い涙がわくのを覚えました。見ると先生のお目にも涙が光っていました。「ええ、なりたけどこへもいきませんわ。」 こう先生は、おっしゃいました。けれど、・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・「当り前さ、今から死んでたまるものかね。そう言えば、お前さん今年幾歳になったんだっけね?」「九さ、たまらねえじゃねえか、来年はもう三十面下げるんだ。お光さんは今年三だね?」「ええ、よく覚えててね」と女はニッコリする。「そりゃ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・「ええ。お立ち合いの皆々様。わたくしは皆様方のお望みになる事なら、どんな事でもして御覧に入れます。大江山の鬼が食べたいと仰しゃる方があるなら、大江山の鬼を酢味噌にして差し上げます。足柄山の熊がお入用だとあれば、直ぐここで足柄山の熊をお椀・・・ 小山内薫 「梨の実」
出典:青空文庫