・・・ かような事を、くどく書きつづけるのは、繁忙な職務を御鞅掌になる閣下にとって、余りに御迷惑を顧みない仕方かも知れません。しかし、私の下に申上げようとする事実の性質上、閣下が私の正気だと云う事を御信用になるのは、どうしても必要でございます・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・ そこで、卓子に肱をつくと、青く鮮麗に燦然として、異彩を放つ手釦の宝石を便に、ともかくも駒を並べて見た。 王将、金銀、桂、香、飛車、角、九ツの歩、数はかかる境にも異はなかった。 やがて、自分のを並べ果てて、対手の陣も敷き終る折か・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ おかげで、白崎は大学で覚えたことをすっかり忘れてしまうくらい、毎日逆立ちをやらされ、赤井は本職の落語を忘れてしまうくらい、毎日浪花節を唸らされて、いわば隊長の肴になるために、応召したようなものであった。 しかし、彼等は隊長の酒の肴・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・高段者の将棋では王将が詰んでしまう見苦しいドタン場まで指していない。防ぎようがないと判ると潔よく「もはやこれまで」と云って、駒を捨てるのが高段者のたしなみである。「日本も遂にもはやこれまでと言って駒を捨てる時が来たな」 と、私は思っ・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・それきり顔を見せなくなったが、応召したのか一年ばかりたって中支から突然暑中見舞の葉書が来たことがある。…… そんな不義理をしていたのだが、しかし寒そうに顫えている横堀の哀れな復員姿を見ると、腹を立てる前に感覚的な同情が先立って、中へ入れ・・・ 織田作之助 「世相」
ある朝、一通の軍事郵便が届けられた。差出人はSという私の旧友からで、その手紙を見て、はじめて私はSが応召していることを知ったのである。Sと私は五年間音信不通で、Sがどこにどうしているやら消息すらわからなかったのである。つま・・・ 織田作之助 「面会」
・・・ 小沢は両親も身寄りもない孤独な男だったが、それでも応召前は天下茶屋のアパートに住んでたのだから、今夜、大阪駅に著くと、背中の荷物は濡れないように駅の一時預けにして、まず天下茶屋のアパートへ行ってみた。 しかし、跡形もなかった。焼跡・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・こちらもそれに釣られて早く指すならば、いつの間にやら王将をとられている。そんな棋風であった。謂わば奇襲である。僕は幾番となく負けて、そのうちにだんだん熱狂しはじめたようであった。部屋が少しうすぐらくなったので、縁側に出て指しつづけた。結局は・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・昨年、T君と見合いをして約婚したけれども、結納の直後にT君は応召になって東京の或る聯隊にはいった。私も、いちど軍服のT君と逢って三十分ほど話をした事がある。はきはきした、上品な青年であった。明日いよいよ戦地へ出発する事になった様子である。そ・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・今天下の士君子、もっぱら世事に鞅掌し、干城の業を事とするも、あるいは止むをえざるに出ずるといえども、おのずからその所長所好なからざるをえず。ゆえにかの士君子も、天与の自由を得て、その素志を施すものというべし。また我が党の士、幽窓の下におりて・・・ 福沢諭吉 「中元祝酒の記」
出典:青空文庫