・・・少年は焦るような緊張した顔になって、羨しげに、また少しは自分の鉤に何も来ぬのを悲しむような心を蔽いきれずに自分の方を見た。 しばらく彼も我も無念になって竿先を見守ったが、魚の中りはちょっと途断えた。 ふと少年の方を見ると、少年はまじ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・かつ大きな人格の光を千載にはなち、偉大なる事業の沢を万人にこうむらすにいたるには、長年月を要することが多いのは、いうまでもない。 伊能忠敬は、五十歳から当時三十余歳の高橋作左衛門の門にはいって測量の学をおさめ、七十歳をこえて、日本全国の・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・床屋さんは瘤の多いグル/\頭の、太い眉をした元船員の男だった。三年食っていると云った。出たくないかときくと、なアに長い欧州航路を上陸をせずに、そのまゝ二三度繰りかえしていると思えば何んでもない、と云って笑った。「アパアト住い」と云い、又・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ことしの夏のことを書き添えるつもりで、思わずいろいろなことを書き、親戚から送って貰った桃の葉で僅かに汗疹を凌いだこと、遅くまで戸も閉められない眠りがたい夜の多かったこと、覚えて置こうと思うこともかなり多いと書いて見た。この稀な大暑を忘れない・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・やがて次郎は何か思いついたように、やや中腰の姿勢をして、車のゆききや人通りの激しい外の町からこの私をおおい隠すようにした。 私たちはある町を通り過ぎようとした。祭礼かと見まごうばかりにぎやかに飾り立てたある書店の前の広告塔が目につく。私・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・それが動機で普通道徳の道を歩んでいる場合も多い。そしてこれが本当の道徳だとも思った。しかしだんだん種々の世故に遭遇するとともに、翻って考えると、その同情も、あらゆる意味で自分に近いものだけ濃厚になるのがたしかな事実である。して見るとこれもあ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 郊外から見ると、二日の日なぞは一日中、大きなまっ赤な入道雲見たいなものが、市内の空に物すごく、おおいかぶさっていました。それは実は、まださかんにやけている火事の烟のあつまりだったのです。 四 しかし、震災の・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・これまで多くの人々はふだんの平和に甘えて、だらけた考におち、お金の上でも、間違った、むだのついえの多い生活をしていた点がどれだけあったかわかりません。この大変災を機会として、すべての人が根本に態度をあらためなおし、勤勉質実に合理的な生活をす・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・「ごめんなんせ」という。振り向くと、馬の鼻が肩のところに覗いている。小走りに百姓家の軒下へ避ける。そこには土間で機を織っている。小声で歌を謡っている。「おおい」と言って馬を曳いた男が立ちどまる。藁の男は足早に同じ軒下へ避ける。馬は通・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・口には云わず心配の多い母、自然の足許に、此も無言の裡に悩む一人の娘が、いつまでも立っていました。 彼女を結婚させなければならないと云うことは、スバーの両親にとって、一方ならない苦労でした。近所の人達は、親の責任を果さないと云って、悪く云・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
出典:青空文庫