・・・たとえば池のみぎわから水面におおいかぶさるように茂った見知らぬ木のあることは知っていたが、それに去年は見なかった珍しい十字形の白い花が咲いている。それが日比谷公園の一角に、英国より寄贈されたものだという説明の札をつけて植えてある「花水木」と・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと贅沢の沙汰だが、可哀想でもあるから、――さあ食うがいい。――姉さん、この恵比寿はどこでできるんだね」「おおかた熊本でござりまっしょ」「ふん、熊本・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・「父ちゃあん!」 子供の食い取ってしまいたいような、乳色の手が吉田の頸にしがみついた。「おお、いい子、いい子、泣くんじゃねえ。誰が来たって、どいつが来たって、坊を渡すこっちゃねえからな」 彼は、子供を確り抱きしめた。そしてと・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・「放擲ッておおきよ、小万さん。どこへでも自分の好きなとこへ行くがいいやね」 次の間には平田が障子を開けて、「おやッ、草履がない」「また誰か持ッてッたんだよ。困ることねえ。私のをはいておいでなさいよ」と、小万が声をかけるうちに、平・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・死人のような目で空を睨むように人の顔を見ています。おお、気味が悪い。あれは人間ではございませんぜ。旦那様、お怒なすってはいけません。わたくしは何と仰ゃっても彼奴のいる傍へ出て行く事は出来ません。もしか明日の朝起きて見まして彼奴が消えて無くな・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・思いたえてふり向く途端、手にさわる一蓋の菅笠、おおこれよこれよとその笠手にささげてほこらに納め行脚の行末をまもり給えとしばし祈りて山を下るに兄弟急難とのみつぶやかれて 鶺鴒やこの笠たゝくことなかれ ここより足をかえしてけさ馬車に・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・「来た、来た。おおくらい。急にあたりが青くしんとなった」「うん、だけどもう雲が半分お日さんの下をくぐってしまったよ。すぐ明るくなるんだよ」「もう出る。そら、ああ明るくなった」「だめだい。また来るよ、そら、ね、もう向こうのポプ・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・ おお! では貞操っていうのは、どういうものなの?」ときくのだけれど、この大切な瞬間のお祖母さんはその経験ふかい白髪にかかわらず、さながら大きい棒パンのようにただ立って、切なげな表情をして、或る意味で人生の瀬戸ぎわに立っている孫娘にくりかえ・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・ 同心を勤める人にも、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと思えば、またしみじみと人の哀れを身に引き受けて、役がらゆえ気色には見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあった・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・婦人の甲斐なさ、それよ忠義の志ばかりでおじゃるわ』とこの眼から張り切りょうずる涙を押えて……おおおれは今泣いてはいぬぞ、忍藻……おれも武士の妻あだに夫を励まし、聟を急いたぞ。そを和女、忍藻も見ておじゃったろうぞのう。武士の妻のこころばえはか・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫