・・・けだし疑うらくはここらを領せし人の名などより、たけ光の庄、たけ光の山などとの称の起りたるならんか。いと古くより秩父の郡に拠りて栄えたる丹の党には、その初めてここに来りし丹治比武信、また初めてここを領せし武経などの如く、武の字を名につけたるも・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 見ると次郎は顔色も青ざめ、少年らしい怒りに震えている。何がそんなにこの子を憤らせたのか、よく思い出せない。しかし、私も黙ってはいられなかったから、「お前のあばれ者は研究所でも評判だというじゃないか。」「だれが言った――」「・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・しかしこの思想を一の人生観として取り上げる時、そこに当然消極か積極かという問題が起こり来たらざるを得ないことは、すでにヨーロッパの論者が言っている通りである。而してその当然の解釈が、信ぜず従わずをもって単なる現状の告白とせず、進んでこれを積・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ こう言ってお怒りになりました。ウイリイは困ってしまって、うまやへ帰って自分の小さな馬に言いました。「あの大きなお城がどうしてここまで持って来られよう。私はもういっそ殺してもらった方がましだと思う。それに、あんな年取った王さまが、あ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・世界大戦の終りごろ、一九二〇年ごろから今日まで、約十年の間にそれは、起りつつある。」きのう学校で聞いて来たばかりの講義をそのまま口真似してはじめるのだから、たまったものでない。「数学の歴史も、振りかえって見れば、いろいろ時代と共に変遷して来・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・蹴って憤然と立ちあがりましたが、そのとき、卓上から床にころげ落ちて在った一箇の蜜柑をぐしゃと踏みつぶして、おどろきの余り、ひッという貧乏くさい悲鳴を挙げたので、満座抱腹絶倒して、博士のせっかくの正義の怒りも、悲しい結果になりました。けれども・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・離婚問題も慰藉料問題も鳥の世界には起こり得ないのである。 自分の到着前には雄が二羽いたそうである。その中の一羽がむやみに暴戻で他の一羽を虐待する。そのたびに今もいる鴨羽の雌は人間で言わば仲を取りなし顔とでもいったような様子でそば近く寄っ・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・しかしまたそれだから、大いに泣き、大いに怒りまた笑った顔となりうる潜在能をもった顔である。 それで、巧妙な音楽と人形使いの技術との適当なモンタージュによって、同一の顔がたちまちにして大いに笑い、たちまちにしてまた大いに泣くのである。こう・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・善ニョムさんは、まったく狂人のように怒り出して、畑の隅へ駈けて行くと天秤棒をとりあげて犬の方へ駈けていった「ち、ちきしょうめ!」 しかし、犬は素早く畑を飛び出すと、畑のくろをめぐって、下の畑へ飛び下りた。そしてこれも顔を赤くホテらし・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ 巴里輸入の絵葉書に見るが如き書割裏の情事の、果してわが身辺に起り得たか否かは、これまたここに語る必要があるまい。わたしの敢えて語らんと欲するのは、帝国劇場の女優を中介にして、わたしは聊現代の空気に触れようと冀ったことである。久しく薗八・・・ 永井荷風 「十日の菊」
出典:青空文庫