・・・ 一処、大池があって、朱塗の船の、漣に、浮いた汀に、盛装した妙齢の派手な女が、番の鴛鴦の宿るように目に留った。 真白な顔が、揃ってこっちを向いたと思うと。「あら、お嬢様。」「お師匠さーん。」 一人がもう、空気草履の、媚か・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・いよいよ余儀ない場合に迫って、そうするより外に道が無かったならばどうするかと念を押して見た。自分の前途の惨憺たる有様を想見するより外に何らの答を為し得ない。 一人の若い衆は起きられないという。一人は遊びに出て帰って来ないという。自分は蹶・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・私がさっきほんとに情なくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」 面白く遊ぼう遊ぼう言うても、話を始めると直ぐにこうなってしまう。民子は涙を拭うた様であった。ちょうどよくそこへ馬が見えてきた。西側の山路から、がさがさ笹・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・其後又、今度は貸金までして仕度をして何にも商ばいをしない家にやるとここも人手が少なくてものがたいのでいやがって名残をおしがる男を見すてて恥も外聞もかまわないで家にかえると親の因果でそれなりにもしておけないので三所も四所も出て長持のはげたのを・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・あすこへ御案内おし」「なアに、どこでもいいですよ」と、僕は立ってお君さんについて行った。煙草盆が来た、改めてお茶が出た。「何をおあがりなさいます」と、お君のおきまり文句らしいのを聴くと、僕が西洋人なら僕の教えた片言を試みるのだろうと・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ぴッたり、僕のそばにからだを押しつけて坐った。それッきりで、目が物を言っていた。僕はその頸をいだいて口づけをしてやろうとしたら、わざとかおをそむけて、「厭な人、ね」「厭なら来ないがいい、さ」「それでも、来たの――あたし、あなたの・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・政界の新人の領袖として名声藉甚し、キリスト教界の名士としてもまた儕輩に推されていたゆえ、主としてキリスト教側から起された目覚めた女の運動には沼南夫人も加わって、夫君を背景としての勢力はオサオサ婦人界を圧していた。 丁度巌本善治の明治女学・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・しく死を待つ 獄中の計愁を消すべき無し 法場若し諸人の救ひを欠かば 争でか威名八州を振ふを得ん 沼藺残燈影裡刀光閃めく 修羅闘一場を現出す 死後の座は金きんかんたんを分ち 生前の手は紫鴛鴦を繍ふ月げつちん秋水珠を留める涙 花・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・たったさっきまで、その名誉のために一命を賭したのでありながら、今はその名誉を有している生活というものが、そこに住う事も、そこで呼吸をする事も出来ぬ、雰囲気のない空間になったように、どこへか押し除けられてしまったように思われるらしい。丁度死ん・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ 海や砂山や、空にかがやいている日の光には、すこしの変わりがなかったけれど、天地は急におし黙ってしまって、なにもかも、おしのごとくに見られたのです。 そして、赤い船の影は、波間にうすれて、見えたり、消えたりしています。 洋服を着・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
出典:青空文庫