・・・そこでかれは俯んだ――もっともかねてリュウマチスに悩んでいるから、やっとの思いで俯んだ。かれは糸の切れっ端を拾い上げて、そして丁寧に巻こうとする時、馬具匠のマランダンがその門口に立ってこちらを見ているのに気がついた。この二人はかつてある跛人・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 縁側に出て顔を洗いながら、今朝急いで課長に出すはずの書類のあることを思い出す。しかし課長の出るのは八時三十分頃だから、八時までに役所へ行けば好いと思う。 そして頗る愉快げな、晴々とした顔をして、陰気な灰色の空を眺めている。木村を知・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均しくこれ casus である。Casus として取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房はそういう境界には到らずにし・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ 翌日は朝から晩まで、亭主が女房の事を思い、女房が亭主の事を思っている。そのくせ互に一言も物は言わない。 ある日の事である。ちょうど土曜日で雨が降っていた。ツァウォツキイは今一人の破落戸とヘルミイネンウェヒの裏の溝端で骨牌をしていた・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・何でおじゃる。思い出しても二方(新田義宗と義興の御手並み、さぞな高氏づらも身戦いをしたろうぞ。あの石浜で追い詰められた時いとう見苦しくあッてじゃ」「ほほ御主、その時の軍に出なされたか。耳よりな……語りなされよ」「かたり申そうぞ。ただ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・郵便脚夫は灸の姉の所へ重い良人の手紙を投げ込んだ。 夕暮れになると、またいつものように点燈夫が灸の家の門へ来た。献燈には新らしい油が注ぎ込まれた。梨の花は濡れ光った葉の中で白々と咲いていた。そして、点燈夫は黙って次の家の方へ去っていった・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・きも感じたことだが、一人のものが十二羽の鵜の首を縛った綱を握り、水流の波紋と闘いつつ、それぞれに競い合う本能的な力の乱れを捌き下る、間断のない注意力で鮎を漁る熟練のさ中で、ふと私は流れる人生の火を見た思いになり遠く行き過ぎてしまった篝火の後・・・ 横光利一 「鵜飼」
・・・そしてあの世棄人も、遠い、微かな夢のように、人世とか、喜怒哀楽とか、得喪利害とか云うものを思い浮べるだろう。しかしそれはあの男のためには、疾くに一切折伏し去った物に過ぎぬ。 暴風が起って、海が荒れて、波濤があの小家を撃ち、庭の木々が軋め・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・らしって恍惚なすった御様子は、トント嬉かった昔を忍ぶとでもいいそうで、折ふしお膝の上へ乗せてお連になる若殿さま、これがまた見事に可愛い坊様なのを、ろくろくお愛しもなさらない塩梅、なぜだろうと子供心にも思いました。 近処のものは、折ふし怪・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・すべての人をこういう融け合った心持ちで抱きたい、抱かなければすまない、と思いました。私は自分に近い人々を一人一人全身の愛で思い浮かべ、その幸福を真底から祈り、そうしてその幸福のためにありたけの力を尽くそうと誓いました。やがて私の心はだんだん・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫