・・・こんな訳で、内証言は一つも言えませんから、私は医師の宅まで出かけて本当の容態を聴こうと思いました。これは余程思切った事で、若し医師が駄目と言われたら何としようと躊躇しましたが、それでも聞いておく必要は大いにあると思って、決心して診察室へはい・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ このような疑惑は思いの外に執念深いものである。「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って行為に移さない限り、われわれのアンニュイのなかに、外観上の年齢を遙かにながく生き延びる。とっくに分別のできた大人が、今・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・部屋へ帰ると窓近い樫の木の花が重い匂いを部屋中にみなぎらせていました。Aは私の知識の中で名と物とが別であった菩提樹をその窓から教えてくれました。私はまた皆に飯倉の通りにある木は七葉樹だったと告げました。数日前RやAや二三人でその美しい花を見・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・かの唄の主なるべしと辰弥は直ちに思いぬ。 顔は隔たりてよくも見えねど、細面の色は優れて白く、すらりとしたる立姿はさらに見よげなり。心ともなくこなたを打ち仰ぎて、しきりにわれを見る人のあるにはッとしたるごとく、急がわしく室の中に姿を隠しぬ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・あきらめられそうでいてて、さて思い起こすごとにあきらめ得ない哀別のこころに沈むのはこの類の事です、そして私は「縁が薄い」という言葉の悲哀を、つくづく身に感じます。 ツイ近ごろのことです、私は校友会の席で、久しぶりで鷹見や上田に会いました・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 牧師が賛美歌の番号を知らすと、堂のすみから、ものものしい重い、低い調子でオルガンの一くさり、それを合図に一同が立つ。そして男子の太い声と婦人の清く澄んだ声と相和して、肉声の一高一低が巧妙な楽器に導かれるのです、そして「たえなるめぐみ」・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・人間の倫理的養成がいかにわれらの禀性に本具しているかはこれでも思いあたるのである。その青春時代学芸と教養とに発足する時期において、倫理的要求が旺盛であるか否かということはその人の一生の人格の質と品等とを決定する重大な契機である。倫理的なるも・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たしかにそうだった。子供が自分の衝動の赴くまゝに、やりた・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・二重硝子を透して遠くに、対岸の黒河の屋根が重い支那家屋の家なみが、黒く見えた。すべてがかたまりついた雪と氷ばかりだ。部分部分が白く、きらきらと光っていた。 また、きしきしという軋りが聞えて、氷上蹄鉄を打ちつけられた馬が、氷を蹴る音がした・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・サア、まことの糟糠の妻たる夫思いの細君はついに堪えかねて、真正面から、「あなたは今日はどうかなさったの。」と逼って訊いた。「どうもしない。」「だって。……わたしの事?」「ナーニ。」「それならお勤先の事?」「ウウ、・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫