・・・ 僕もそこで母が家へ帰るまで田打ちをして助けた。 けれども父はまだ帰って来ない。五月十四日、昨夜父が晩く帰って来て、僕を修学旅行にやると云った。母も嬉しそうだったし祖母もいろいろ向うのことを聞いたことを云った。祖母の云う・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・「カルボナード火山島が、いま爆発したら、この気候を変えるくらいの炭酸ガスを噴くでしょうか。」「それは僕も計算した。あれがいま爆発すれば、ガスはすぐ大循環の上層の風にまじって地球ぜんたいを包むだろう。そして下層の空気や地表からの熱の放・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・そこで、名前を変えるには、改名の披露というものをしないといけない。いいか。それはな、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげて、私は以来市蔵と申しますと、口上を云って、みんなの所をおじぎしてまわるのだ。」「そんなことはとても出来ません。」「い・・・ 宮沢賢治 「よだかの星」
・・・私たちに、もし帰る家庭があるならば、それこそ私たち自身の社会的な努力によってその構造を辛くも守りたてて来ているからではないだろうか。戦争中、女はあんなに働かされた。働かされ、又働き、そしてその働きによってこそ、疲れて夕刻に戻る家路を保って来・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ おきまりの場所になっている芝生の上に坐って、ぼんやりと、空に浮んだり消えたりする白い雲を眺めていた政子さんは、暫くすると誰かに肩を叩かれて、喫驚しながら振返ると、其処には思い掛けず、友子さんが立っています。「まあ友子さん」「あ・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・……私は仕事とあなたとをとり代えることは出来ないんだから……」 両手で顔をおさえてドミトリーは椅子に坐っている。インガは、近よって行って、ドミトリーの髪を撫でた。ドミトリーには、ただ女友達が、妻がいったのだ。インガは、今はっきりそれを理・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・自分のこれまでの人生なり社会なりの見かたを変えるなにかが加えられた、と感じる瞬間が必ずあったろう。戦争については周知のような態度であった尾崎士郎のような作家でさえ、あわただしい雑記のうちに、印象が深められずに逸走してしまう作家として苦しい瞬・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・ 火の玉の様になった栄蔵のわきで手拭を代える事を怠らずに、お節は二夜、まんじりともしなかった。 四日五日と熱は一分位ずつ下って、十日目には手にも熱く感じない様になってお節は厚く礼を述べて借りて居た計温器を医者に返した。 一日一日・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 一人行く旅路の友と人形を抱くしおらしさよ。我妹、雪白の祭壇の上に潔く安置された柩の裡にあどけないすべての微笑も、涙も、喜びも、悲しみも皆納められたのであろうか。永久に? 返る事なく? 只一度の微笑みなり一滴の涙なりを只一度とのこされた・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 清水は、ふと気を換えるように、「この詩を知っていますか」と、イガグリ頭を仰向けるように眼を瞑り、節をつけて何かの漢詩を吟じた。古来孝子は親の、名を口にするのさえも畏れ遠慮するというような意味のことをうたった詩である。「わか・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫