・・・そしてとうとうたまりかねたようにその眇眼で父をにらむようにしながら、「せっかくのおすすめではございますが、私は矢張り御馳走にはならずに発って札幌に帰るといたします。なに、あなた一晩先に帰っていませば一晩だけよけい仕事ができるというもので・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ フレンチは帰る途中で何物をも見ない。何物をも解せない。丁度活人形のように、器械的に動いているのである。新しい、これまで知らなかった苦悩のために、全身が引き裂かれるようである。 どうも何物をか忘れたような心持がする。一番重大な事、一・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・次第に処々の別荘から人が都会へ帰るようになった。 この別荘の中でも評議が初まった。レリヤが、「クサカはどうしましょうね」といった。この娘は両手で膝を擁いて悲しげに点滴の落ちている窓の外を見ているのだ。 母は娘の顔を見て、「レリヤや。・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・そして飽きたら以前に帰るさ。A しかし厭だね。B 何故。おれと一緒が厭なら一人でやっても可いじゃないか。A 一緒でも一緒でなくても同じことだ。君は今それを始めたばかりで大いに満足してるね。僕もそうに違いない。やっぱり初めのうちは・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山に入る、辰口という小さな温泉に行きて帰るさ、件の茶屋に憩いて、児心に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色の白き、痩せたる女、差俯向き・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・……振返ると、白浜一面、早や乾いた蒸気の裡に、透なく打った細い杭と見るばかり、幾百条とも知れない、おなじような蛇が、おなじような状して、おなじように、揃って一尺ほどずつ、砂の中から鎌首を擡げて、一斉に空を仰いだのであった。その畝る時、歯か、・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・ とこの八畳で応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄ら寒し、着換えるも面倒なりで、乱箱に畳んであった着物を無造作に引摺出して、上着だけ引剥いで着込ん・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ 引込まれては大変だと、早足に歩行き出すと、何だかうしろから追い駈けるようだから、一心に遁げ出してさ、坂の上で振返ると、凄いような月で。 ああ、春の末でした。 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。 自分の影を・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行くようで、底が轟々と沸えくり返るだ。 ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。 西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・娘の白い頤の少しばかり動くのを、甘味そうに、屏風巌に附着いて見ているうちに、運転手の奴が、その巌の端へ来て立って、沖を眺めて、腰に手をつけ、気取って反るでしゅ。見つけられまい、と背後をすり抜ける出合がしら、錠の浜というほど狭い砂浜、娘等四人・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
出典:青空文庫