・・・が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折る間も惜しいように「お」の字街道へ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛の馬が一匹繋いである。それを見た半之丞は後で断れば好いとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨って遮二無二街道を走り出・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・今年は朝顔の培養に失敗した事、上野の養育院の寄附を依頼された事、入梅で書物が大半黴びてしまった事、抱えの車夫が破傷風になった事、都座の西洋手品を見に行った事、蔵前に火事があった事――一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・が、鍛冶町へも来ないうちにとうとう読書だけは断念した。この中でも本を読もうと云うのは奇蹟を行うのと同じことである。奇蹟は彼の職業ではない。美しい円光を頂いた昔の西洋の聖者なるものの、――いや、彼の隣りにいるカトリック教の宣教師は目前に奇蹟を・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・僕はやっと一息つき、家事上の問題などを読んで行った。けれどもそれさえ最後へ来ると、いきなり僕を打ちのめした。「歌集『赤光』の再版を送りますから……」 赤光! 僕は何ものかの冷笑を感じ、僕の部屋の外へ避難することにした。廊下には誰も人・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・ 神将 我々は天が下の陰陽師、安倍の晴明の加持により、小町を守護する三十番神じゃ。 使 三十番神! あなたがたはあの嘘つきを、――あの男たらしを守護するのですか? 神将 黙れ! か弱い女をいじめるばかりか、悪名を着せるとは怪しか・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・そこで仔細を聞いて見ると、この神下しの婆と云うのは、二三年以前に浅草あたりから今の所へ引越して来たので、占もすれば加持もする――それがまた飯綱でも使うのかと思うほど、霊顕があると云うのです。「君も知っているだろう。ついこの間魚政の女隠居が身・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・山火事で焼けた熊笹の葉が真黒にこげて奇跡の護符のように何所からともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の曖昧屋からは夜ごとに三味線の遠音が響くようになった。 仁右衛門は逞しい・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ぼくは火事じゃないかと思った。 ポチが戸の外で気ちがいのように鳴いている。 部屋の中は、障子も、壁も、床の間も、ちがいだなも、昼間のように明るくなっていた。おばあさまの影法師が大きくそれに映って、怪物か何かのように動いていた。ただお・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・原稿紙にでも向っていた時に、お前たちの母上が、小さな家事上の相談を持って来たり、お前たちが泣き騒いだりしたりすると、私は思わず机をたたいて立上ったりした。そして後ではたまらない淋しさに襲われるのを知りぬいていながら、激しい言葉を遣ったり、厳・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・遠くから眺めていると、自分の脱けだしてきた家に火事が起って、みるみる燃え上がるのを、暗い山の上から瞰下すような心持があった。今思ってもその心持が忘られない。 詩が内容の上にも形式の上にも長い間の因襲を蝉脱して自由を求め、用語を現代日常の・・・ 石川啄木 「弓町より」
出典:青空文庫