・・・警察署の裏、北向きの留置場では花時でも薄暗く、演武場の竹刀の音、すぐ横の石炭置場の奥にある犬小舎でキャン、キャンけたたましく啼き立てる野犬の声などがする。 南京虫が出て、おちおち眠られない。「夏になったらそれこそえらいもんだ。去年こ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・更に、まだ全然社会化されていない日本家庭の家事の負担は、家庭の主婦を過労にさせているばかりか、すべての勤労婦人にとって二重の疲労をもたらしているのです。日本婦人大衆の生活の実状は、このようなものです。戦争による未亡人の生活確立に関して、植民・・・ 宮本百合子 「国際民婦連へのメッセージ」
・・・顕治に代って家事経営の中心になっていた。一九四五年八月六日広島の原爆当日、三度目の応召で入隊中行方不明となった。同年十二月死去の公報によって葬儀を営んだ。十月十日に網走刑務所から解放されて十二年ぶりで東京にかえった顕治と百合子が式に列した。・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 次に女は毎日の実生活の上に於いて、家事上の事柄に力を浪費することも大きなものです。たとい女中を使ってするにしても、その中心になる仕事に対しては、主婦がこれを指揮しなくてはならず、従って家のことを忘れて白熱的の力で文芸に専念する場合、そ・・・ 宮本百合子 「今日の女流作家と時代との交渉を論ず」
・・・ 親切な眼をもったレーニングラード・ソヴェト文化部員ムイロフは革命のとき鍛冶屋だった。一九一三年からの党員だ。はじめて会った時、ムイロフは、大きい手へ逆にもった鉛筆をけずりながらあんたの職業はなんだと日本女に訊いた。「私は作家だ」「ふー・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・十二名の被告のなかで、彼ひとりが、自由法曹団外の鍛冶、栗林、丁野の三弁護人を選任して出廷したのであった。偽証罪として起訴された石川、金の二人の被告を加えた十一名と、自由法曹団の弁護人たちが、七十歳の布施辰治を先頭として、はげしく検事の取調べ・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・ 火事にも逢わずに、だいぶ久しく立っている家と見えて、頗ぶる古びが附いていた。柱なんぞは黒檀のように光っていた。硝子の器を載せた春慶塗の卓や、白いシイツを掩うた診察用の寝台が、この柱と異様なコントラストをなしていた。 この卓や寝台の・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・ 翌日も雨が降っている。鍛冶町に借家があるというのを見に行く。砂地であるのに、道普請に石灰屑を使うので、薄墨色の水が町を流れている。 借家は町の南側になっている。生垣で囲んだ、相応な屋敷である。庭には石灰屑を敷かないので、綺麗な砂が・・・ 森鴎外 「鶏」
私は豊前の小倉に足掛四年いた。その初の年の十月であった。六月の霖雨の最中に来て借りた鍛冶町の家で、私は寂しく夏を越したが、まだその夏のなごりがどこやらに残っていて、暖い日が続いた。毎日通う役所から四時過ぎに帰って、十畳ばか・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・「門前の小僧は習わぬ経を誦む」鍛冶屋の嫁は次第に鉄の産地を知る。三郎が武術に骨を折るありさまを朝夕見ているのみか、乱世の常とて大抵の者が武芸を収める常習になっているので忍藻も自然太刀や薙刀のことに手を出して来ると、従って挙動も幾分か雄々・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫