・・・ 四方の山々いよいよ近づくを見るのみ、取り出でていうべき眺望あるところにも出会わねば、いささか心も倦みて脚歩もたゆみ勝ちに辿り行くに、路の右手に大なる鳥居立ちて一条の路ほがらかに開けたるあり。里の嫗に如何なる神ぞと問えば、宝登神社という・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・その中にゃあ勝ちもした負けもした、いい時ゃ三百四百も握ったが半日たあ続かねえでトドのつまりが、残ったものア空財布の中に富籤の札一枚だ。こいつあ明日になりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益にゃあ極ってるが明日行って見ねえ中は楽みがある、これよりほ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・もしまた人生に、社会的価値とも名づけるべきものがあるとすれば、それは、長寿にあるのではなくて、その人格と事業とか、四囲および後代におよぼす感化・影響のいかんにあると信じていた。今もかく信じている。 天寿はとてもまっとうすることができぬ。・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・ 熊吉は黙し勝ちに食っていた。食後に、おげんは自分の側に来て心配するように言う熊吉の低い声を聞いた。「姉さん、私と一緒にいらっしゃい――今夜は小間物屋の二階の方へ泊りに行きましょう」 おげんは点頭いた。 暗い夜が来た。おげん・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ 人間の価値はまるで転倒して了った。彼はおせんと別れるより外に仕方が無かったことを哀しく思った。何故初めからもっと大切にすることは出来なかったろうと思って見た。 マルの毛を撫でながら、こんな考えに沈んでいるところへ、律義顔な婆さんが・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・牡蠣についた真珠のように、娘の涙は彼女の価値を高めるばかりでした。彼は、スバーが自分の不具を悲しんで泣くとは知らず此ほかの解釈を、その涙に対して下そうともしませんでした。 終に暦が調べられ、結婚の儀式は吉日を選んで行われました。 娘・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・私の作品には、批評の価値さえありません。作品の感想などを、いまさら求めていたのではありません。けれども、手紙の訴えだけには耳を傾けて下さい。少しも嘘なんか書きませんでした。どこが、どんなに嘘なのでしょう。すぐに御返事を下さい。 わがまま・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・だから自信のあるものが勝ちである。拙宅の赤んぼさんは、大介という名前の由。小生旅行中に女房が勝手につけた名前で、小生の気に入らない名前である。しかし、最早や御近所へ披露してしまった後だから泣寝入りである。後略のまま頓首。大事にしたまえ。萱野・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ひとつき、すねて、とうとう私が勝ちました。但馬さんとも相談して、私は、ほとんど身一つで、あなたのところへ参りました。淀橋のアパートで暮した二箇年ほど、私にとって楽しい月日は、ありませんでした。毎日毎日、あすの計画で胸が一ぱいでした。あなたは・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・と思うと、もう生きている価値がない、死んだ方が好い、死んだ方が好い、死んだ方が好い、とかれは大きな体格を運びながら考えた。 顔色が悪い。眼の濁っているのはその心の暗いことを示している。妻や子供や平和な家庭のことを念頭に置かぬではないが、・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫