・・・家といったってどうせ荒家で、二間かそこいらの薄暗い中に、お父もお母も小穢え恰好して燻ってたに違いねえんだが……でも秋から先、ちょうど今ごろのような夜の永い晩だ、焼栗でも剥きながら、罪のねえ笑話をして夜を深かしたものだっけ、ね。あのころの事を・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・蒲団の中からだらんと首をつきだしたじじむさい恰好で、永いことそうやっていると、ふと異様な影が鏡を横切った。蜘蛛だった。私はぎょっとした自分の顔を見た。そして思わず襖を見た。とたんに蜘蛛はぴたりと停って、襖に落した影を吸いながら、じっと息を凝・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・無論その辺には彼に恰好な七円止まりというような貸家のあろう筈はないのだが、彼はそこを抜けて電車通りに出て電車通りの向うの谷のようになった低地の所謂細民窟附近を捜して見ようと思って、通りかゝったのであった。両側の塀の中からは蝉やあぶらやみんみ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・夜彼が細君と一緒に温泉へやって来るときの恰好を見るがいい。長い頸を斜に突き出し丸く背を曲げて胸を凹ましている。まるで病人のようである。しかし刳物台に坐っているときの彼のなんとがっしりしていることよ。彼はまるで獲物を捕った虎のように刳物台を抑・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・ある青年がどんな娘を好むかはその青年の人生への要求をはかる恰好の尺度である。美しくて、常識があって、利口に立ち働けそうな娘を好むならその青年の人物はそういうものなのだ。無造作で、精神的で、ささげる心の濃い娘を好むなら、そうした品性の青年なの・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ と、彼は、それと同じことを、鮮人部落の地理や、家の格好や、その内部の構造や、美しい娘のことなどを、執拗に憲兵隊で曹長に訊ねられたことを思い出した。「女というものは恐ろしいもんだよ。そいつはいくらでも金を吸い取るからな。」 松本・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・そしてこの村から川上の方を望めば、いずれ川上の方の事だから高いには相違ないが、恐ろしい高い山々が、余り高くって天に閊えそうだからわざと首を縮めているというような恰好をして、がん張っている状態は、あっちの邦土は誰にも見せないと、意地悪く通せん・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・、万事贅沢安楽に旅行の出来るようになった代りには、芭蕉翁や西行法師なんかも、停車場で見送りの人々や出迎えの人々に、芭蕉翁万歳というようなことを云われるような理屈になって仕舞って、「野を横に汽車引むけよ郭公」とも云われない始末で、旅行に興味を・・・ 幸田露伴 「旅行の今昔」
・・・ドアーの入口で待っていた特高が、直ぐしゃちこばった恰好で入ってきた。判事の云う一言々々に句読点でも打ってゆくように、ハ、ハア、ハッ、と云って、その度に頭をさげた。 私はその特高に連れられたまゝ、何ベンも何ベンもグル/\階段を降りて、バ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・老博士は、ビヤホールの廻転ドアから、くるりと排出され、よろめき、その都会の侘びしい旅雁の列に身を投じ、たちまち、もまれ押されて、泳ぐような恰好で旅雁と共に流れて行きます。けれども、今夜の老博士は、この新宿の大群衆の中で、おそらくは一ばん自信・・・ 太宰治 「愛と美について」
出典:青空文庫