・・・洋一はとうとうかっとなって、そこにあったトランプを掴むが早いか、いきなり兄の顔へ叩きつけた。トランプは兄の横顔に中って、一面にあたりへ散乱した。――と思うと兄の手が、ぴしゃりと彼の頬を撲った。「生意気な事をするな。」 そう云う兄の声・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・と、云い切ったろうじゃありませんか。かっとしたのは新蔵で、さてこそ命にかかわると云ったのは、この婆の差金だろうと、見てとったから、我慢が出来ません。じりりと膝を向け直すと、まだ酒臭い顋をしゃくって、「大凶結構。男が一度惚れたからにゃ、身を果・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・興奮が来ると人前などをかまってはいない父の性癖だったが、現在矢部の前でこんなものの言い方をされると、彼も思わずかっとなって、いわば敵を前において、自分の股肱を罵る将軍が何処にいるだろうと憤ろしかった。けれども彼は黙って下を向いてしまったばか・・・ 有島武郎 「親子」
・・・それを見ると仁右衛門は土間に向けてかっと唾を吐いた。馬はびくんとして耳をたてたが、やがて首をのばしてその香をかいだ。 帳場は妻のさし出す白湯の茶碗を受けはしたがそのまま飲まずに蓆の上に置いた。そしてむずかしい言葉で昨夜の契約書の内容をい・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、産婦はかっと瞼を開いて、あてどもなく一所を睨みながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。そして私の上体を自分の胸の上にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若し私が産婦と同じ程度にいきんでいなか・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・子供は……それまでは自分の力にある自信を持って努力していたように見えていたが……こういうはめになるとかっとあわて始めて、突っ張っていた手にひときわ力をこめるために、体を前の方に持って行こうとした。しかしそれが失敗の因だった。そんなことをやっ・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ はッと俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。 かっと逆上せて、堪らずぬっくり突立ったが、南無三物音が、とぎょッとした。 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のもの・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 吃驚して、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓へ照々と当る日が、片頬へかっと射したので、ぱちぱちと瞬いた。「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」 となおさら可笑がる。 謙造は一向真面目で、「何という人だ。名札・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ 処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」 と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えて瞻るばかり、一時、屋根を取って挫ぐがごとく吹き撲る。「気が騒いでなら・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・出たッと、また髯どのが叫ぶと、蜻蛉がひらりと動くと、かっと二つ、灸のような炎が立つ。冷い火を汗に浴びると、うら山おろしの風さ真黒に、どっと来た、煙の中を、目が眩んで遁げたでござえますでの。……… それでがすもの、ご新姐、お客様。」「・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
出典:青空文庫