・・・昔日鎖国の世なれば、これらの諸件に欠点あるも、ただ一国内に止まり、天に対し同国人に対しての罪なりしもの、今日にありては、天に対し同国人に対し、かねてまた外国人に対して体面を失し、その結局は我が本国の品価を低くして、全国の兄弟ともにその禍を蒙・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ですけど、頭からそう申す事は、余り不躾なようで出来かねます。だんだん書いてまいりますうちに、そんな事も申されるようになりますかも知れません。 あなたがわたくしの事を度々思い出して下さるだろう、そしてそれを思い出すのを楽しみにして下さるだ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・日の光いたらぬ山の洞のうちに火ともし入てかね掘出す赤裸の男子むれゐて鉱のまろがり砕く鎚うち揮てさひづるや碓たててきらきらとひかる塊つきて粉にする筧かけとる谷水にうち浸しゆれば白露手にこぼれくる黒けぶり群りたたせ手もす・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ 蕪村の句の絵画的なるものは枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば木瓜の陰に顔たくひすむ雉かな釣鐘にとまりて眠る胡蝶かなやぶ入や鉄漿もらひ来る傘の下小原女の五人揃ふて袷かな照射してさゝやく近江八幡かな葉うら/・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・礼を云って歩き出したら「お前さん、どこからかね?」「日本から来たんです」「ふーむ。そりゃ結構だ。――わかりましたか、ホレそこを真直行って……」ともう一遍教えてくれた。 入ってゆくと廊下で、左側には「賃銀支払金庫」「保険貯・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
市が立つ日であった。近在近郷の百姓は四方からゴーデルヴィルの町へと集まって来た。一歩ごとに体躯を前に傾けて男はのそのそと歩む、その長い脚はかねての遅鈍な、骨の折れる百姓仕事のためにねじれて形をなしていない。それは鋤に寄りかかる癖がある・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・よめはすぐに起って、勝手からかねて用意してあった杯盤を自身に運んで出た。よめも母と同じように、夫がきょう切腹するということをとうから知っていた。髪を綺麗に撫でつけて、よい分のふだん着に着換えている。母もよめも改まった、真面目な顔をしているの・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・ 母もおぼつかない挨拶だと思うような顔つきをしていたがさすがになお強いてとも言いかね、やがてやや傾いた月を見て、「夜も更けた。さらばおれはこれから看経しょうぞ。和女は思いのまにまに寝ねよ」 忍藻がうなずいて礼をしたので母もそれか・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 秋三は急に静な微笑を浮べた勘次のその出方が腑に落ちかねた。「安次、手前ここに構えとれよ。今度俺とこへ来さらしたら、殴打しまくるぞ。」 安次は戸口へ蹲んだまま俯向いて、「もうどうなとしてくれ。」と小声で云った。「当分ここ・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫