・・・ この階下の大時計六時を湿やかに打ち、泥を噛む轍の音重々しく聞こえつ、車来たりぬ、起つともなく起ち、外套を肩に掛けて階下に下り、物をも言わで車上に身を投げたり。運び行かるる先は五番町なる青年倶楽部なり。 倶楽部の人々は二郎が南洋航行・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 布団の中でお源が啜泣する声が聞えたが磯には香物を噛む音と飯を流し込む音と、美味いので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食い終ったころには啜泣の声も止んだのである。 磯が火鉢の縁を忽々叩き初めるや布団がむくむく動いていた・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・何物にも換えられなかった楽しい結婚の褥、そこから老い行く生命を噛むような可恐しい虫が這出そうとは…… 大塚さんは彼女を放擲して関わずに置いた日のことを考えた。あらゆる夫婦らしい親密も快楽も行って了ったことを考えた。おせんは編物ばかりでな・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・あのめしを噛む、その瞬間の感じのことだ。動物的な、満足である。下品な話だ。……」 私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはして・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・陰鬱の冷括、吠えずして噛む一匹の病犬に化していた。一夜、三人の兵卒は、アグリパイナの枕頭にひっそり立った。一人は、死刑の宣告書を持ち、一人は、宝石ちりばめたる毒杯を、一人は短剣の鞘を払って。『何ごとぞ。』アグリパイナは、威厳を失わず、き・・・ 太宰治 「古典風」
・・・ Kは、かるく下唇を噛む。「いまごろになると、毎年きまって、いけなくなるらしいのね。寒さが、こたえるのかしら。羽織ないの? おや、おや、素足で。」「こういうのが、粋なんだそうだ。」「誰が、そう教えたの?」 私は溜息をつい・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・はいつでも口ごもり、ひどく誤解されて、たいてい負けて、そうして深夜ひとり寝床の中で、ああ、あの時にはこう言いかえしてやればよかった、しまった、あの時、颯っと帰って来ればよかった、しまった、と後悔ほぞを噛む思いに眠れず転輾している有様なのだか・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・君であったのに、そのチョッキを着物の下に着込んでから、急に落ち着きを失い、その性格に卑しい浮遊性を帯び、夫の同僚といまわしい関係を結び、ついには冬の一夜、燈台の頂上から、鳥の翼の如く両腕をひろげて岩を噛む怒濤めがけて身を躍らせたという外国の・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・そればかりでなく煙管の吸口をガリガリ噛むので銀の吸口が扁たくひしゃげていたようである。いくら歯が丈夫だとしてもあんなに噛みひしゃぐには口金の銀が相当薄いものでなければならなかったと考えられる。それはとにかく、この老人はこの煙管と灰吹のおかげ・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・なまで噛むと特徴ある青臭い香がする。 年取った祖母と幼い自分とで宅の垣根をせせり歩いてそうけ(笊に一杯の寒竹を採るのは容易であった。そうして黒光りのする台所の板間で、薄暗い石油ランプの燈下で一つ一つ皮を剥いでいる。そういう光景が一つの古・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
出典:青空文庫