・・・洋一は看護婦の手を借りずに、元通りそれを置き直した。するとなぜかまぶたの裏が突然熱くなるような気がした。「泣いちゃいけない。」――彼は咄嗟にそう思った。が、もうその時は小鼻の上に涙のたまるのを感じていた。「莫迦だね。」 母はかすかに・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと称していた。僕はいまだに花キャベツを食うたびに必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。 二四 中洲 当時の中洲は言葉どおり、芦の茂ったデルタアだった。僕はその芦の中に流れ灌頂や・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・「俺ら銭こ一文も持たねえからちょっぴり借りたいだが」 赤坊の事を思うと、急に小銭がほしくなって、彼れがこういい出すと、帳場は呆れたように彼れの顔を見詰めた、――こいつは馬鹿な面をしているくせに油断のならない横紙破りだと思いながら。そ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・室だけ借りて置いて、飯は三度とも外へ出て食うことにしたんだよ。A 君のやりそうなこったね。B そうかね。僕はまた君のやりそうなこったと思っていた。A 何故。B 何故ってそうじゃないか。第一こんな自由な生活はないね。居処って奴・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 貧乏寺の一間を借りて、墓の影法師のように日を送る。―― 十日ばかり前である。 渠が寝られぬ短夜に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母の影が見えぬ…… 枕頭の障子の陰に、朝の膳ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 両側に軒の並んだ町ながら、この小北の向側だけ、一軒づもりポカリと抜けた、一町内の用心水の水溜で、石畳みは強勢でも、緑晶色の大溝になっている。 向うの溝から鰌にょろり、こちらの溝から鰌にょろり、と饒舌るのは、けだしこの水溜からはじま・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 向うには、旦那の熊沢が、上下大島の金鎖、あの大々したので、ドカリと胡坐を組むのであろう。「お留守ですか。」 宗吉が何となく甘谷に言った。ここにも見えず、湯に行った中にも居なかった。その熊沢を訊いたのである。 縁側の片隅で、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・何か機の器具を借りに来たらしい。 やがて芋が煮えたというので、姉もおとよさんといっしょに降りてくる。おおぜい輪を作って芋をたべる。少しく立ちまさった女というものは、不思議な光を持ってるものか、おとよさんがちょっとここへくればそのちょっと・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
一 僕は一夏を国府津の海岸に送ることになった。友人の紹介で、ある寺の一室を借りるつもりであったのだが、たずねて行って見ると、いろいろ取り込みのことがあって、この夏は客の世話が出来ないと言うので、またその住持・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「僕は社の会計から煙草銭ぐらい融通する事はあるが、個人としての沼南には一銭だって借りた覚えがない。ところがこの頃退引ならない事情があって沼南に相談すると、君の事情には同情するが金があればいいがネ、と袂から蟇口を出して逆さに振って見せて、「な・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
出典:青空文庫