・・・この垂れ髪の童女の祈祷は、こう云う簡単なものなのである。「憐みのおん母、おん身におん礼をなし奉る。流人となれるえわの子供、おん身に叫びをなし奉る。あわれこの涙の谷に、柔軟のおん眼をめぐらさせ給え。あんめい。」 するとある年のなたら(・・・ 芥川竜之介 「おぎん」
・・・通知の文面は極簡単なもので、ただ、藤井勝美と云う御用商人の娘と縁談が整ったと云うだけでしたが、その後引続いて受取った手紙によると、彼はある日散歩のついでにふと柳島の萩寺へ寄った所が、そこへ丁度彼の屋敷へ出入りする骨董屋が藤井の父子と一しょに・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・盧生は青磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸をした。邯鄲の秋の午後は、落葉した木々の梢を照らす日の光があってもうすら寒い。「眼がさめましたね。」呂翁は、髭を噛みながら、笑を噛み殺すような顔をして云った。「ええ」「夢・・・ 芥川竜之介 「黄粱夢」
・・・ 今まで黙っていた廉州先生は、王氏のほうを顧みると、いちいち画の佳所を指さしながら、盛に感歎の声を挙げ始めました。その言葉とともに王氏の顔が、だんだん晴れやかになりだしたのは、申し上げるまでもありますまい。 私はその間に煙客翁と、ひ・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画端書に感嘆の声を洩らす時のほかは、滅多に雲の影などへ心を止めないのも不思議ではない。いわんや今は薔薇の花の咲き乱れている路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが――以下は前に書いた通り・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・それは邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐して帰郷したと云う「韓非子」中の青年だった。今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。しかしまだ地獄へ堕ちなかった僕もこのペン・ネエムを用いていたことは、――僕・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・私はあまりの不思議さに、何度も感嘆の声を洩しますと、ミスラ君はやはり微笑したまま、また無造作にその花をテエブル掛の上へ落しました。勿論落すともとの通り花は織り出した模様になって、つまみ上げること所か、花びら一つ自由には動かせなくなってしまう・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・父の癖として、このように一心不乱になると、きわめて簡単な理屈がどうしてもわからないと思われるようなことがあった。監督が小言を言われながら幾度も説明しなおさなければならなかった。彼もできるだけ穏やかにその説明を手伝った。そうすると父の機嫌は見・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ そういって彼れはすたすたと国道の方に出て行った。簡単な啼声で動物と動物とが互を理解し合うように、妻は仁右衛門のしようとする事が呑み込めたらしく、のっそりと立上ってその跡に随った。そしてめそめそと泣き続けていた。 夫婦が行き着いたの・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・―― 泉殿に擬えた、飛々の亭のいずれかに、邯鄲の石の手水鉢、名品、と教えられたが、水の音より蝉の声。で、勝手に通抜けの出来る茶屋は、昼寝の半ばらしい。どの座敷も寂寞して人気勢もなかった。 御歯黒蜻蛉が、鉄漿つけた女房の、微な夢の影ら・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
出典:青空文庫