十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。 文鳥は三重吉の・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・果せるかな家内のものは皆新宅へ荷物を片付に行って伽藍堂の中に残るは我輩とペンばかりである。彼は立板に水を流すがごとくびび十五分間ばかりノベツに何か云っているが毫もわからない。能弁なる彼は我輩に一言の質問をも挟さましめざるほどの速度をもって弁・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・町には何の異常もなく、窓はがらんとして口を開けていた。往来には何事もなく、退屈の道路が白っちゃけてた。猫のようなものの姿は、どこにも影さえ見えなかった。そしてすっかり情態が一変していた。町には平凡な商家が並び、どこの田舎にも見かけるような、・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ みんなもなんだか、その男も三郎も気の毒なようなおかしながらんとした気持ちになりながら、一人ずつ木からはねおりて、河原に泳ぎついて、魚を手ぬぐいにつつんだり、手にもったりして家に帰りました。 次の朝、授業の前みんなが運動場で鉄棒・・・ 宮沢賢治 「風の又三郎」
・・・ そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫りだしたという・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ぼくらも何だか気の毒なような、おかしながらんとした気持ちになった。そこで、一人ずつ木からはね下りて、河原に泳ぎついて、魚を手拭につつんだり、手にもったりして、家に帰った。八月十四日 しゅっこは、今日は、毒もみの丹礬をもって来・・・ 宮沢賢治 「さいかち淵」
・・・そこのがらんとした寂しい地面の有様が子供の心をつよく動かした。何故ここだけこんな何もないのだろう。――或る日、子供は畑から青紫蘇の芽生えに違いないと鑑定をつけた草を十二本抜いて来た。それから、その空地のちょうど真中ほどの場所を選んで十二の穴・・・ 宮本百合子 「雨と子供」
・・・随分賑やかなのに、何故がらんとして立体的でないのだろう。地下室の酒場らしい濃厚な陰翳がなさすぎる。周囲の高い壁がさっぱりしすぎている。声と姿ばかり。真実に心から溶けた雰囲気がない。 あれ程大勢の男や女を舞台に出したのは、勿論、彼等によっ・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・キュリー夫人は土用真盛りの、がらんとしたアパートの部屋でブルターニュの娘たちへ手紙を書いた。「愛するイレーヌ。愛するエーヴ。事態がますます悪化しそうです。私たちは今か今かと動員令を待ち受けています。」 しかし戦争にならなければそちら・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
・・・日がもう暮れかかったので、薄暗い屋内を見廻すに、がらんとして何一つない。道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。その音が寂寞を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
出典:青空文庫