・・・金網をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしている。その火気を感じると、内蔵助の心には、安らかな満足の情が、今更のようにあふれて来た。丁度、去年の極月十五日に、亡君の讐を復して、泉岳寺へ引上げた時・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・常子は昨夜寝る前に『あなたはほんとうに寒がりね。腰へも毛皮を巻いていらっしゃるの?』と言った。ことによると俺の馬の脚も露見する時が来たのかも知れない。……」 半三郎はこのほかにも幾多の危険に遭遇した。それを一々枚挙するのはとうていわたし・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・俺たちがりっぱなものを描くからだ……世の中の奴には俺たちの仕事がわからないんだ……ああ俺はもうだめだ。瀬古 ともちゃん、そのおはぎの舌ざわりはいったいどんなだったい……僕には今日はおはぎがシスティン・マドンナの胸のように想像されるよ。・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ 鼻の提灯、真赤な猿の面、飴屋一軒、犬も居らぬに、杢若が明かに店を張って、暗がりに、のほんとしている。 馬鹿が拍手を拍った。「御前様。」「杢か。」「ひひひひひ。」「何をしておる。」「少しも売れませんわい。」「馬鹿・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・「ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。」「旦那、とんでもねえ罰が当る。」「撃つやつとどうかな。」段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、侍女も上等のになると、段々勿体をつけ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・それで民さんがりんどうを好きになってくれればなお嬉しい」 二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた。秋の日足の短さ、日はようやく傾きそめる。さアとの掛声で棉もぎにかかる。午後の分は僅であったから一時間半ばかりでもぎ終えた。何やかやそれぞ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・お貞が二人の子供を実子のように可愛がり、また自慢するのが近処の人々から嫌われる一原因だと聴いていたから、僕はそのつもりであしらっていた。「どうも馬鹿な子供で困ります」と言うのを、「なアに、ふたりとも利口なたちだから、おぼえがよくッて・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・生来の虚飾家、エラがり屋で百姓よりも町人よりも武家格式の長袖を志ざし、伊藤八兵衛のお庇で水府の士族の株を買って得意になって武家を気取っていた。が、幕府が瓦解し時勢が一変し、順風に帆を揚げたような伊藤の運勢が下り坂に向ったのを看取すると、天性・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ おじいさんや、おばあさんは、「うちの娘は、内気で恥ずかしがりやだから、人さまの前には出ないのです。」といっていました。 奥の間でおじいさんは、せっせとろうそくを造っていました。娘は、自分の思いつきで、きれいな絵を描いたら、みん・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・お多福め、苦しがりやがって俥屋の尻が何だとか……はははは、腹の皮を綯らしやがった。だが、そう見られるほど意気に出来てりゃしようがねえ」「およしよ! 聞きたくもない」とお光は気障がって、「だけど、芸者が何で金さんのとこへ来たと思ったんだろ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫