・・・に忍ぶの恋草や、誰れに摘めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、聞く身につらきいもがりは、同じ待つ間の置炬燵、川風寒き子窓、急ぐ足音ききつけて、かけた蒲団の格子外、もしやそれかとのぞいて見れば、河岸の夕日にしよんぼりと、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・顫えながら飛び込んだ客は寒がりである。 子規と来て、ぜんざいと京都を同じものと思ったのはもう十五六年の昔になる。夏の夜の月円きに乗じて、清水の堂を徘徊して、明かならぬ夜の色をゆかしきもののように、遠く眼を微茫の底に放って、幾点の紅灯に夢・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・家人はそれを面白がり、僕によく悪戯してからかった。或る時、女中が杓文字の影を壁に映した。僕はそれを見て卒倒し、二日間も発熱して臥てしまった。幼年時代はすべての世界が恐ろしく、魑魅妖怪に満たされて居た。 青年時代になってからも、色々恐ろし・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・俺は、お前が菜っ葉を着て、ブル達の間を全で大臣のような顔をして、恥しがりもしないで歩いていたから、附けて行ったのさ、誰にでも打っつかったら、それこさ一度で取っ捕まっちまわあな」「お前はどう思う。俺たちが何故死んじまわないんだろうと不思議・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・るひ人どもあつまりゐる中にうちまじりつつ御けしきをがみ見まつる隠士も市の大路に匍匐ならびをろがみ奉る雲の上人天皇の大御使と聞くからにはるかにをがむ膝をり伏せて 勅使をさえかしこがりて匍匐いおろがむ彼をして、一たび二重・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・このとき山の象どもは、沙羅樹の下のくらがりで、碁などをやっていたのだが、額をあつめてこれを見た。「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出てきて助けてくれ。」 象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠えだした。「オツベルをやっつ・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・ 七月からこっち、体の工合が良くない続きなので、余計寒がりに、「かんしゃく持」になった。 茶っぽく青い樫の梢から見える、高あく澄んだ青空をながめると、変なほど雲がない。 夏中見あきるほど見せつけられた彼の白雲は、まあどこへ行った・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・の中で、光彩陸離と、なり上り結婚のために友情も信義もけちらかして我利をたくらむやり手な美しい女性を描いた。家庭の純潔が言われても、社会がこれらの家庭の純潔を全うさせるだけの条件を一つも備えていなかったことはオルゼシュコの「寡婦マルタ」の哀れ・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
・・・木村はそれを厭がりもしないが、無論難有くも思っていない。 丁度近所の人の態度と同じで、木村という男は社交上にも余り敵を持ってはいない。やはり少し馬鹿にする気味で、好意を表していてくれる人と、冷澹に構わずに置いてくれる人とがあるばかりであ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ はや下ななつさがりだろう、日は函根の山の端に近寄ッて儀式とおり茜色の光線を吐き始めると末野はすこしずつ薄樺の隈を加えて、遠山も、毒でも飲んだかだんだんと紫になり、原の果てには夕暮の蒸発気がしきりに逃水をこしらえている。ころは秋。そここ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫