・・・ この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想の男であったが、次の如き返答を与えた。 拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立し・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・とかいう言葉があった筈で、まことに奇異なる思いをしたことがある。「お殺せ」いい言葉だねえ。恥しくないか。 おまえはいったい、貴族だと思っているのか。ブルジョアでさえないじゃないか。おまえの弟に対して、おまえがどんな態度をとったか、よかれ・・・ 太宰治 「如是我聞」
・・・音で、それが空中ともなく地中ともなく過ぎ去って行くのは実際他に比較するもののない奇異の感じを起こさせるものである。ちょうど自分が観測室内にいた時に起こった地鳴りの際には、磁力計の頂上に付いている管が共鳴してその頭が少なくも数ミリほど振動する・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・の楽器の比較に移って行く、その途中で、遠くかけ離れた異種民族の楽器が、その楽器としての本質においてのみならず、またその名称においても、一脈の連鎖によって互いにつながっているらしく見える現象に逢着して、奇異の感に打たれる事もしばしばあった。も・・・ 寺田寅彦 「比較言語学における統計的研究法の可能性について」
・・・もう少し複雑な場合でも、全く偶然な暗合で特殊な事件が続発して、プロバビリティの方則を知らない世人に奇異の念を起させたり、超自然的な因果を想わせる例はいくらでもある。それで私は三人の同窓の死だけから他のものの死の機会を推算するような不合理をあ・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・初めてこの光景に接した時自分は無論いうべからざる奇異なる感に打たれた。そしてこの奇異なる感は、如何なる理由によって呼起されたかを深く考え味わねばならなかった。数寄を凝した純江戸式の料理屋の小座敷には、活版屋の仕事場と同じように白い笠のついた・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・また或日の夕方には、大声に泣きながら歩く女の列を先駆にした葬式の行列に出遇って、その奇異なる風俗に眼を見張った。張園の木の間に桂花を簪にした支那美人が幾輛となく馬車を走らせる光景。また、古びた徐園の廻廊に懸けられた聯句の書体。薄暗いその中庭・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・其の瞬間に経験した奇異なる心況は殆名状することの出来ないほど複雑なものであった。観客の言語服装と舞台の世界とは全然別種のもので、其間に何等の融和すべきものがない。これに加るに残暑の殊に烈しかった其年の気候はわたくしをして更に奇異なる感を増さ・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・おおよそ世の流行は馴るるに従って、其の始め奇異の感を抱かせたものも、姑くにして平凡となるのが常である。況や僕は既にわかくはない。感激も衰え批判の眼も鈍くなっている。箍が弛んでいる。僕は年五十に垂んとした其の年の秋、始めて銀座通のカッフェーに・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・しかしてこの一つの奇異なる事実――それが他人の趣味によつて選定されるといふこと――が、美術品や文学書の装幀に於ける最も興味ある哲学を語るものではないか。なぜといつて私の所有にかかはるところの油画は、それが他人の描いたものであるにかかはらず、・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
出典:青空文庫