・・・良人たる者がこれを聞ける胸中いかん。この言をしてもし平生にあらしめば必ず一条の紛紜を惹き起こすに相違なきも、病者に対して看護の地位に立てる者はなんらのこともこれを不問に帰せざるべからず。しかもわが口よりして、あからさまに秘密ありて人に聞かし・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・ ハナヤは豹吉やその仲間のいわば巣であり、ハナヤへ来れば、仲間の誰かが必ずトグロを巻いていて仲間の消息もきけるし、連絡も出来る。 ところが、仲間でも何でもない得体の知れぬ女が、毎日同じ時刻に、誰と会うわけでもなく、一人でトグロを巻き・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ここの別当橋立寺と予て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路あまりの女の髪は銀杏返しというに結び、指には洋銀の戒指して、手頸には風邪ひかぬ厭勝というなる黒き草綿糸の環かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・八カ月もの間、壁と壁と壁と壁との間に――つまり小ッちゃい独房の一間に、たった一人ッ切りでいたのだから、自分で自分の声をきけるのは、独り言でもした時の外はないわけだ。何かものをしゃべると云ったところで、それも矢張り独り言でもした時のこと位だろ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ウイリイはびっくりして、「おや、お前は口がきけるのか。それは何より幸だ。」と喜びました。そればかりか、耳にさえさわれば食べるものや飲むものがすぐにどこからか出て来るというのですから、これほど便利なことはありません。 ウイリイは、馬を・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・どうです、奥さん、東京にいた時も、こっちへ来てからも、修治に対して俺ほどこんな無遠慮に親しく口をきける男は無かったろう。何せ昔の喧嘩友達だから、修治も俺には、気取る事が出来やしない」 ここに於いて、彼の無遠慮も、あきらかに意識的な努力で・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・ 人が死ぬほど恥かしがっているその現場に平気で乗り込んで来て、恥かしくありませんかと聞ける奴あ悪魔だ。 あなたは、はずかしがっていません。 どうしてわかる? どうして、それがわかるんだ。 イエス答をなし給わず、か。お前のその・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・ 十二、三歳の少女の話を、まじめに聞ける人、ひとりまえの男というべし。 その余は、おのれの欲するがまにまに行え。二十八日。「現代の英雄について。」 ヴェルレエヌ的なるものと、ランボオ的なるもの。 スウ・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。黯然として吾も黙した。また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底見込がないそうだ。・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、宵の名残かと骨を撼がす」と落ち付かぬ眼を長き睫の裏に隠してランスロットの気色を窺う。七十五度の闘技に、馬の脊を滑るは無論、鐙さえはずせる事なき勇士も、この夢を奇しとのみは思わず。快か・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫