・・・と云って兵衛が生きたにせよ、彼自身が命を墜したら、やはり永年の艱難は水泡に帰すのも同然であった。彼はついに枕を噛みながら、彼自身の快癒を祈ると共に、併せて敵瀬沼兵衛の快癒も祈らざるを得なかった。 が、運命は飽くまでも、田岡甚太夫に刻薄で・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・――「職工か何かにキスされたからですって。」「そんなことくらいでも発狂するものかな。」「そりゃするわ。すると思ったわ。あたしもゆうべは怖い夢を見た。……」「どんな夢を?――このタイはもう今年ぎりだね。」「何か大へんな間違・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・「ちょいと託ける事があるのだから、折角見えたものを情なく追帰すのも、お気の毒だと思って、通して上げましたがね、熟として待っていなさい。私の方に支度があるのだから、お前さんまた大きな声を出したり、威張ったり、お騒ぎだと為になりませんよ。」・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・「よせ、よせ!」と、三味線をひッたくったらしい。「じゃア、もう、帰って頂戴よ、何度も言う通り、貰いがかかっているんだから」「帰すなら、帰すようにするがいい」「どうしたらいいのよ?」「こうするんだ」「いたいじゃアないか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・萃を蔵す 帳裡の名香美人を現ず 古より乱離皆数あり 当年の妖祟豈因無からん 半世売弄す懐中の宝 霊童に輸与す良玉珠 里見氏八女匹配百両王姫を御す 之子于に帰ぐ各宜きを得 偕老他年白髪を期す 同心一夕紅糸を繋ぐ 大家終に団欒の・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ 縦ひ妖魔をして障碍を成さしむるも 古仏因縁を証する無かるべけん 明珠八顆都て収拾す 想ふ汝が心光地に凭て円きを 里見義成依然形勝関東を控ふ 剣豪犬士の功に非ざる無し 百里の江山掌握に帰す 八州の草本威風に偃す 驕将敗を取る・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・「いま時分、お父さんを帰すのは、心配でなりませんが。」と、息子は、案じながらいいました。 すると、おじいさんは、からからと笑いました。「俺は、おまえよりも年をとっている。それに、智慧もある。まちがいのあるようなことはないから、安・・・ 小川未明 「おおかみをだましたおじいさん」
・・・特に、今日の資本主義に反抗して、芸術を本来の地位に帰す戦士でなければなりません。かゝる芸術の受難時代が、いつまでつゞくか分りませんが、考えようによって、アムビシャスな作家には、興味ある時代であります。・・・ 小川未明 「作家としての問題」
・・・このばかな女でもなければ、一目見て追い帰すにちがいない。いったい、医者というものをなんと心得「おじいさん、せっかくだが、私は、これから急病人の迎えを受けているので、出かけなければならないのだ。だからすぐみてあげることができない。どうか、・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・「よし、今日は、ひとつ手にキスしてやろう。」 一人の女に、二人がぶつかることがあった。三人がぶつかることもあった。そんな時、彼等は、帰りに、丘を下りながら、ひょいと立止まって、顔を見合わせ、からから笑った。「ソぺールニクかな。」・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫