・・・和服に着換え、脱ぎ捨てた下着の薔薇にきれいなキスして、それから鏡台のまえに坐ったら、客間のほうからお母さんたちの笑い声が、どっと起って、私は、なんだか、むかっとなった。お母さんは、私と二人きりのときはいいけれど、お客が来たときには、へんに私・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・わかい私には、そのような一夜を明して、女をひとりすげなく帰すのは、許しがたい無礼であると考えられたのである。夜明けのまちには、人ひとり通らなかった。私たちは、未来のさまざまな幸福を語り合って、胸をおどらせた。私たちは、いつまでもそうして歩い・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・ 私は花江さんにキスしてやりたくて、仕様がありませんでした。花江さんとなら、どんな苦労をしてもいいと思いました。「この辺のひとたちは、みんな駄目ねえ。あたし、あなたに、誤解されてやしないかと思って、あなたに一こと言いたくって、それで・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・ 九唱 ナタアリヤさん、キスしましょう その翌、翌日、まえの日の賤民とはちがって、これは又、帝国ホテルの食堂、本麻の蚊がすり、ろの袴、白足袋の、まごうかたなき、太宰治。ふといロイド眼鏡かけて、ことし流行とやらのオリン・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・フロベエルなど、私はよく存じませぬが、なかなか細密の写実家の様子で、シャルルがエンマの肩にキスしようとすると、と言って拒否するところございますが、あんな細かく行きとどいた眼を持ちながら、なぜ、女の肌の病気のくるしみに就いては、書いて下さらな・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・「これは、みんな、あたしのだよ。」とラプンツェルは教えて、すばやく手近の一羽をつかまえ、足を持ってゆすぶりました。鳩は驚いて羽根をばたばたさせました。「キスしてやっておくれ!」とラプンツェルは鋭く叫んで、その鳩で王子の頬を打ちました。「・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・ 予報者と被予報者との意志の疎通せざる手近き原因は、予報の指定する範囲と被予報者の利害範囲の大きさの相違と、その公算的不整合を許容する程度の差異に帰すべしと思わる。 最後に卑近なる例を挙げて所説を補わん。木の葉をつたい歩く蟻にとりて・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・しかしそれらの直接の原因の根本に横たわる重大な原因は、ああいう地震が可能であるという事実を日本人の大部分がきれいに忘れてしまっていたということに帰すべきであろう。むしろ、人間というものが、そういうふうに驚くべく忘れっぽい健忘性な存在として創・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
・・・これで行く度に阿母さんが出て来て、色々打ち釈けた話をしちゃ、御馳走をして帰す。酒のお酌や飯の給仕に出るのがその綾子さんで、どうも様子が可怪しいと思ってるてえと、やがてのこと阿母さんの口から縁談の話が出た。けど秋山少尉は考えておきますと、然い・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・黒鉄の黒きを磨いて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑の霧を含みて、芙蓉に滴たる音を聴くとき、対える人の身の上に危うき事あり。けきぜんと故・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫