・・・ それにしても私は今自分の身体に起りつつある些細な変態の兆候を見て、内部の生理的機能についてもある著しい変化を聯想しないではいられない。それと同時に私の心の方面にもある特別な状態を認め得るような気がする。それが肉体の変化の直接の影響であ・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・第三は器械的実験によって現象を系統化し、帰納する能力である。これをKと名づける。今もしこの三つの能力が測定の可能な量であると仮定すれば、LSKの三つのものを座標として、三次元の八分一空間を考え、その空間の中の種々の領域に種々の科学者を配当す・・・ 寺田寅彦 「ルクレチウスと科学」
・・・前者は与えられた一つのものに内在する有機的構造を分析展開して見せるに対して、後者は与えられた離れ離れの材料からそれによって合成されうべき可能の圏内に独創機能を働かせて建築を構成し綾錦を織り成すものだとも言われないことはないのである。こういう・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・という現象の機能や本質について何かしらあるヒントを得るように思う。 笑いの現象を生理的に見ると、ある神経の刺激によって腹部のある筋肉が痙攣的に収縮して肺の中の空気が週期的に断続して呼び出されるという事である。息を呼出する作用にそれを食い・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・兄の家では、大阪から見舞いに来ていた、××会社の重役である嫂の弟が、これも昨日山からおりて、今日帰るはずで立つ支度をしていた。「ここもなかなか暑いね」道太は手廻りの小物のはいっているバスケットを辰之助にもってもらい、自分は革の袋を提げて・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・「何時だ、昨日か晩も、二三十人検挙され、その十日ばかり以前にも、百四五十人検挙された争議団である。いくら三千人からの争議団とは云え、利平たちから考えれば、あまりにもその勝敗は知れきっていた。「争議が済んだら、俺が貰い下げに行ってやろ・・・ 徳永直 「眼」
・・・ 然るに震災の後、いつからともなく鐘の音は、むかし覚えたことのない響を伝えて来るようになった。昨日聞いた時のように、今日もまた聞きたいものと、それとなく心待ちに待ちかまえるような事さえあるようになって来たのである。 鐘は昼夜を問わず・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・香炉に隣る白磁の瓶には蓮の花がさしてある。昨日の雨を蓑着て剪りし人の情けを床に眺むる莟は一輪、巻葉は二つ。その葉を去る三寸ばかりの上に、天井から白金の糸を長く引いて一匹の蜘蛛が――すこぶる雅だ。「蓮の葉に蜘蛛下りけり香を焚く」と吟じなが・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・元来私は、磁石の方角を直覚する感官機能に、何かの著るしい欠陥をもった人間である。そのため道のおぼえが悪く、少し慣れない土地へ行くと、すぐ迷児になってしまった。その上私には、道を歩きながら瞑想に耽る癖があった。途中で知人に挨拶されても、少しも・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急いで上草履を引き摺ッている。 お熊は四十格向で、薄痘痕があッて、小鬢に禿があッて、右の眼が曲んで、口・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫