・・・彼は、再度の打撃をうけて僅に残っていた胸間の春風が、見る見る中に吹きつくしてしまった事を意識した。あとに残っているのは、一切の誤解に対する反感と、その誤解を予想しなかった彼自身の愚に対する反感とが、うすら寒く影をひろげているばかりである。彼・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
ある雪上りの午前だった。保吉は物理の教官室の椅子にストオヴの火を眺めていた。ストオヴの火は息をするように、とろとろと黄色に燃え上ったり、どす黒い灰燼に沈んだりした。それは室内に漂う寒さと戦いつづけている証拠だった。保吉はふ・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・二十八日の月給日に堀川教官殿と書いた西洋封筒を受け取るのにはかれこれ二週間も待たなければならぬ。が、彼の楽しみにしていた東京へ出かける日曜日はもうあしたに迫っている。彼はあしたは長谷や大友と晩飯を共にするつもりだった。こちらにないスコットの・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・体操の教官――ある陸軍大尉はいつも僕らには厳然としていた。が、実際の機動演習になると、時々命令に間違いを生じ、おお声に上官に叱られたりしていた。僕はいつもこの教官に同情したことを覚えている。 四四 渾名 あらゆる東京・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・文官教官は午飯の後はたいてい隣の喫煙室へはいる。彼は今日はそこへ行かずに、庭へ出る階段を降ることにした。すると下から下士が一人、一飛びに階段を三段ずつ蝗のように登って来た。それが彼の顔を見ると、突然厳格に挙手の礼をした。するが早いか一躍りに・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌に遮られ、樹に包まれ、兇漢に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのであ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・この向島名物の一つに数えられた大伽藍が松雲和尚の刻んだ捻華微笑の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲の梵雲庵もまた劫火に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それ自から、全的の価値を有するものだ、たゞ、我等に、犠牲的精神あるのは、共感を信じ、光明を未来に信ずるためだ。 かくのごとくにして、人生は、常にロマンチシズムによって、更新される。また、芸術形式単純化は、即ち、資本主義的文化、強権主義的・・・ 小川未明 「単純化は唯一の武器だ」
・・・ というジンメルの言葉に、ついぞ覚えぬ強い共感を抱きながら、軽佻な表情のまま倦怠しているのである。前途に横たわる夢や理想の実現のために、寝床を這い出して行く代りに、寝床の中で煙草をくゆらしながら、不景気な顔をして、無味乾燥な、発展性のな・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・山の峡間がぼうと照らされて、そこから大河のように流れ出ている所もあった。彼はその異常な光景に昂奮して涙ぐんだ。風のない夜で涼みかたがた見物に来る町の人びとで城跡は賑わっていた。暗のなかから白粉を厚く塗った町の娘達がはしゃいだ眼を光らせた。・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫