・・・ これが郷愁というものだとはその時には気が付かなかった。 ハルツの旅 地理学の学生の仲間にはいって、ハルツを見に行った。霧の深い朝であった。霧が晴れかかった時に、線路の横の畑の中に一疋の駄馬がしょんぼり立ってい・・・ 寺田寅彦 「異郷」
・・・その後故郷を離れて熊本に住み、東京に移り、また二年半も欧米の地を遍歴したときでも、この中学時代の海水浴の折に感じたような郷愁を感じたことはなかったようである。一つにはまだ年が行かない一人子の初旅であったせいもあろうが、また一つには、わが家が・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・のコーヒーをちびちびなめながら淡い郷愁を瞞着するのが常習になってしまった。 ベルリンの冬はそれほど寒いとは思わなかったが暗くて物うくて、そうして不思議な重苦しい眠けが濃い霧のように全市を封じ込めているように思われた。それが無意識な軽微の・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・比較にならぬほど上等であるために却って正月の雑煮の気分が出なくて、淡い郷愁を誘われるのであった。 東京へ出て来て汁粉屋などで食わされた雑煮は馴れないうちは清汁が水っぽくて、自分の頭にへばりついている我家の雑煮とは全く別種の食物としか思わ・・・ 寺田寅彦 「新年雑俎」
・・・……淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて、立って反対の舷側へ行くと、対岸をまっ黒な人とまっ黒な石炭を積んだ船が通って行った。 七時に出帆。レセップの像を左に見て地中海へ乗り出して行った。レセップは右手を運河のほうへ延ばして「おはいり」・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 待つ心は日を重ね月を経るに従って、郷愁に等しき哀愁を醸す。郷愁ほど情緒の美しきものはない。長くわたくしが巴里の空を忘れ得ぬのもこの情緒のなすところであろう。 巴里は再度兵乱に遭ったが依然として恙なく存在している。春ともなればリラの・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・ 図らぬ時に、私の田園への郷愁が募った。いつか、檜葉の梢の鳥は去って、庭の踏石の傍に、一羽の雀が降りて居る。先刻、私が屋根に認めた一群のものらしい。チョン、チョンチョンと一束にとび、しきりに粟を拾って居る。私は仄かな悦びを覚えた。けれど・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 留置場へ降りがけ、教習室をとおりぬけたら正面の黒板に、 不逞鮮人取締 憲兵隊との連携と大書してある。 いよいよメーデーだ。警察じゅう一種物々しい緊張に満ちている。非番巡査まで非常召集され顎紐をかけ脚絆をつけた連・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 文学に人間らしさを探ねる本来の欲求は、それら、一つ一つの扉をたたき、しかも、何かみたされない心の郷愁を、子供の世界に憩わせようとしたと思える。 けれども、そこも文学にとって遂の棲家であり得なかった。現実は健やかであると思う。子供た・・・ 宮本百合子 「子供の世界」
・・・『文学界』六月号所載川上喜久子氏の「郷愁」という作品などは、文学の大衆化が誤って理解された芸術的実践の一つの不幸な標本を示していると思われる。 ひとくちに、大衆と云っても、その規定のしかたはいくつかあると思う。少くとも、大衆が低い文化を・・・ 宮本百合子 「今日の文学に求められているヒューマニズム」
出典:青空文庫