・・・日に十里を楽々と走破しうる健脚を有し、獅子をも斃す白光鋭利の牙を持ちながら、懶惰無頼の腐りはてたいやしい根性をはばからず発揮し、一片の矜持なく、てもなく人間界に屈服し、隷属し、同族互いに敵視して、顔つきあわせると吠えあい、噛みあい、もって人・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・けれども、さすがに病床の粥腹では、日頃、日本のあらゆる現代作家を冷笑している高慢無礼の驕児も、その特異の才能の片鱗を、ちらと見せただけで、思案してまとめて置いたプランの三分の一も言い現わす事が出来ず、へたばってしまった。あたら才能も、風邪の・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・その重苦しい何かしら凶事を予感させるような単調な音も、夕凪の夜の詩には割愛し難い象徴的景物である。 東京という土地には正常の意味での夕凪というものが存在しない。その代りに現れる夏の夕べの涼風は実に帝都随一の名物であると思われるのに、それ・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
・・・「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷に晴れて、河も柳も人影も元の如くに見われる。梭は再び動き出す。 女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。 うつせみの世を、 うつつに住めば、 住みうからまし、 むかし・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・超然として自ら矜持する所のものを有っていた。私の頃は高校ではドイツ語を少ししかやらなかったので、最初の一年は主として英語の注釈の附いたドイツ文学の書を読んだ。 その頃の哲学科は、井上哲次郎先生も一両年前に帰られ、元良、中嶋両先生も漸く教・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・論説を書いた人々は社会の木鐸であるというその時分愛好された表現そのままの責任と同時に矜持もあったことだと思う。或人は熱心に、新しい日本の黎明を真に自由な、民権の伸張された姿に発展させようと腐心し、封建的な藩閥官僚政府に向って、常に思想の一牙・・・ 宮本百合子 「明日への新聞」
・・・とただし書を添えながら、元来友情は、お互が対等であって互に尊敬し合うことのできる矜持ということが重要な契機であるから、奴隷や暴君が真の友情をもち得ないということの強調としていられるのであった。 今の時代の生活の感情のなかに受けとって味わ・・・ 宮本百合子 「異性の間の友情」
・・・において苦悩が 衆生のものでなくして私ひとりのものであったら何を 矜持として 生きるものかという、ひろがりをもっている。けがれたまねは しまいと思うしっかりと 何よりもまず自らに立派で あ・・・ 宮本百合子 「『静かなる愛』と『諸国の天女』」
・・・それは芭蕉の時代にもう武士階級の経済基礎は商人に握られて不安になっており、したがって武士の矜恃というものも喪われ、人にすぐれて敏感だった芭蕉に、その虚勢をはった武士の生活が堪えがたかったことを語っている。 大きな商人の隠居だった西鶴はま・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・どんな男性が、どんな心情を抱いて接近して来るか、日本などより遙に多い危険が、女性自身の矜持で防止されているのです。 斯様にして交際しているうちに、多くの異性の中には、特に自分に興味を持ち、真実を抱いて来る者、又自らも抱く者が見出されて来・・・ 宮本百合子 「男女交際より家庭生活へ」
出典:青空文庫