・・・ 雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊びに出られますのえ。今日が・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・そこで私は、この晴二郎には、左に右兄弟も親類もあることでござえますから、死骸を引取らして頂いて、一ト晩だけは通夜をしてやりとうごぜえんすと、恁う申しあげましたんです。 それでまア、本郷の山本まで引取るなら、旗が五本に人足が十三人……山本・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ 箪笥や鏡台なんか並んでいる店の方では、昨夜お座敷の帰りが遅かったとみえて、女が二人まだいぎたなく熟睡していて、一人肥っちょうの銀杏返しが、根からがっくり崩れたようになって、肉づいた両手が捲れた掻巻を抱えこむようにしていた。 お絹は・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・どの国もどの国も陸海軍を拡げ、税関の隔てあり、兄弟どころか敵味方、右で握手して左でポケットの短銃を握る時代である。窮屈と思い馬鹿らしいと思ったら実に片時もたまらぬ時ではないか。しかしながら人類の大理想は一切の障壁を推倒して一にならなければ止・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・何畳だか、一間きりの家の中はよくかたづいていて、あたらしいタンスや紅いきれのかかった鏡台やがあった。「印刷工組合の指導者、青井三吉も、女にかかると、あかんな、うーん」 長野がコップをつきつけた。女房に子供もあるがチャップリンひげと、・・・ 徳永直 「白い道」
・・・石菖の水鉢を置いた子窓の下には朱の溜塗の鏡台がある。芸者が弘めをする時の手拭の包紙で腰張した壁の上には鬱金の包みを着た三味線が二梃かけてある。大きな如輪の長火鉢の傍にはきまって猫が寝ている。襖を越した次の座敷には薄暗い上にも更に薄暗い床の間・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・わたくしは梯子段を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥、茶ぶ台、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ モオパッサンはその短篇中に描いたセエヌ河の舟遊びによって、漫にわれわれの過ぎ去った学生時代を意味深く回想させ、ゴンクウル兄弟が En 18… の篇中に書いた月夜ムウドンの麗しい叙景は、蘆と水楊の多い綾瀬あたりの風景をよろこぶ自分に対し・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ 鏡台の数だけ女も四、五人ほど、いずれも浴衣に細帯したままごろごろ寝転んでいた。暑い暑いといいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものに戯いかける。揚句の果に誰かが「髪へ触っちゃ厭だっていうのに。」と・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・モーターボートの響を耳にしては、「橋台に菜の花さけり」といわれた渡場を思い出す人はない。かつて八幡宮の裏手から和倉町に臨む油堀のながれには渡場の残っていた事を、わたくしは唯夢のように思返すばかりである。 冬木町の弁天社は新道路の傍に辛く・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
出典:青空文庫