・・・六 あくる朝顔を洗ってへやへ帰ると、棚の上の鏡台が麗々と障子の前にすえ直してある。自分は何気なくその前にすわるとともに鏡の下の櫛を取り上げた。そしてその櫛をふくつもりかなにかで、鏡台のひきだしを力任せにあけてみた。すると浅い・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・海軍が進歩した、陸軍が強大になった、工業が発達した、学問が隆盛になったとは思うが、それを認めると等しく、しかあるべきはずだと考えるだけで、未だかつて「如何にして」とか「何故に」とか不審を打った試しがない。必竟われらは一種の潮流の中に生息して・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・一歳違いの男の兄弟があるが、兄貴が何か呉れろといえば弟も何か呉れろという。兄が要らないといえば弟も要らないという。兄が小便がしたいといえば弟も小便をしたいという。それは実にひどいものです。総て兄のいう通りをする。丁度その後から一歩一歩ついて・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・各国家が何処までも他を従えることによって、自己自身を強大にすることが歴史的使命と考えた。そこには未だ国家の世界史的使命の自覚というものに至らなかった。国家に世界史的使命の自覚なく、単なる帝国主義の立場に立つかぎり、又逆にその半面に、階級闘争・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・「オイ、兄弟俺はお前と喧嘩する気はないよ。俺は思い違いをしていたんだ。悪かったよ」「何だ! 思い違いだと。糞面白くもねえ。何を思い違えたんだい」「お前等三人は俺を威かしてここへ連れて来ただろう。そしてこんな女を俺に見せただろう。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・平田がそんな男か、そんな男でないか、五六年兄弟同様にしている私より、お前さんの方がよく知ッてるはずだ。私がまさかお前さんを欺す……」と、西宮がなお説き進もうとするのを、吉里は慌てて遮ッた。「あら、そうじゃアありませんよ。兄さんには済みません・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・小万はすでに裲襠を着、鏡台へ対って身繕いしているところへ、お梅があわただしく駈けて来て、「花魁、大変ですよ。吉里さんがおいでなさらないんですッて」「えッ、吉里さんが」「御内所じゃ大騒ぎですよ。裏の撥橋が下りてて、裏口が開けてあッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・左れば男子は活溌にして身体強大なるが故に陽の部に入り、女子は静にして小弱なるが故に陰なりなど言う理窟もあらんかなれども、仮りに一説を作り、女子の顔の麗くして愛嬌溢るゝ許りなるは春の花の如くなるに反して、男子の武骨殺風景なるは秋水枯木に似たり・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・古への礼に男女は席を同くせず、衣裳をも同処に置ず、同じ所にて浴せず、物を受取渡す事も手より手へ直にせず、夜行時は必ず燭をともして行べし、他人はいふに及ばず夫婦兄弟にても別を正くすべしと也。今時の民家は此様の法をしらずして行規を乱にして名を穢・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・同国にて学権の強大なること、もって証すべし。 我が日本国にても、政府の官職はただ在職中の等級のみにて、このほかに位階勲章の制を立てず、尊卑はただ政府中、官吏相互の等級にして、かつて政府外に通用せざるものなれば、私の会社中に役員の等級ある・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
出典:青空文庫