・・・太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わせた。そのころの私は二階の部屋に陣取って、階下を子供らと婆やにあてがった。 しばらくするうちに、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 三吉は子供らしい手付で水を切る真似をして見せた。さもうまそうなその手付がおげんを笑わせた。「東京の兄さん達も何処かで泳いでいるだらずかなあ」 とまた三吉が思出したように言った。この子はおげんが三番目の弟の熊吉から預った子で、彼・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ウイリイはその中からほかのよりも少し軽いわらしびをより出してまたナイフで切るまねをしました。王女はびっくりして姿を現わして、「そのわらを切られると私の命がなくなるのですから。」と言ってあやまり、「それでは、もういきましょう。」と言い・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・「女は腰のところを下帯で紮げて着るんですから」と言って、藤さんはそばから羽織の襟を直してくれる。「なぜそうするんでしょう」「みんなそうするんですわ。おや、羽織に紐がございませんわね」「いいえけっこう」というと、初やが、「・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・まともに生き切る努力をしようぜ。明日の生活の計画よりは、きょうの没我のパッションが大事です。戦地に行った人たちの事を考えろ。正直はいつの時代でも、美徳だと思います。ごまかそうたって、だめですよ。明日の立派な覚悟より、きょうの、つたない献身が・・・ 太宰治 「或る忠告」
・・・佐吉さんは、超然として、べつにお祭の晴着を着るわけでなし、ふだん着のままで、店の用事をして居ましたが、やがて、来る若者、来る若者、すべて派手な大浪模様のお揃いの浴衣を着て、腰に団扇を差し、やはり揃いの手拭いを首に巻きつけ、やあ、おめでとうご・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 無理カモ知レマセヌガ とまた、うつむいて、低く呟くようにおっしゃって、 ソレダケガ生キル道デス 太宰治 「鉄面皮」
・・・たとえば月を断ち切る雲が、女の目を切る剃刀を呼び出したり、男の手のひらの傷口から出て来る蟻の群れが、女の腋毛にオーバーラップしたりする。そういう非現実的な幻影の連続の間に、人間というものの潜在的心理現象のおそるべき真実を描写する。この点でこ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・今日の我らが人情の眼から見れば、松陰はもとより醇乎として醇なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、五十年後の今日から歴史の背景に照らして見れば、畢竟今日の日本を造り出さんが・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・長野は演説するとき、かならず菜ッ葉服を着るが、そのときは興ざめたように、中途でかえってしまった。前座には深水と高坂がしゃべった。浪花ぶし語りみたい仙台平の袴をつけた深水の演説のつぎに、チョッキの胸に金ぐさりをからませた高坂が演壇にでて、永井・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫