・・・ 踏んばって二度目に腰を切ると、天秤がギシリ――としなって、やがて善ニョムさんは腰で調子をとりながら、家の土橋を渡って野良へ出た。 三 榛の木畑は、榛の木並樹の土堤下に沿うた段々畑であった。 土堤の尽きるはる・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・生れ落ちてから畳の上に両足を折曲げて育った揉れた身体にも、当節の流行とあれば、直立した国の人たちの着る洋服も臆面なく採用しよう。用があれば停電しがちの電車にも乗ろう。自動車にも乗ろう。園遊会にも行こう。浪花節も聞こう。女優の鞦韆も下からのぞ・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・酒は好きで、酔うと客の前でもタンカを切る様子はまるで芸者のようで。一度男にだまされて、それ以来自棄半分になっているのではないかと思われるところもあったが、然し祝儀の多寡によって手の裏返して世辞をいうような賤しいところは少しもなかったので、カ・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・姻戚のものとも諮って家を掩いかぶせた其の竹や欅を伐ることにした。彼は監獄署へ曳かれるのは身を斬られるよりもつらかった。竹でも欅でも何でも惜しくないと彼は思った。だが其頃はまだ竹や木を伐採するには季節が早過ぎたのと一つは彼の足もとをつけ込む商・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。 去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦めば山に遯るる心安さもあるべし。鏡の裏なる狭き宇宙の小さければとて、憂き事の降りかかる十字の街に立ちて、行き・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・けれども事実やむをえない、仕方がないからまず衣物を着る時には呉服屋の厄介になり、お菜を拵える時には豆腐屋の厄介になる。米も自分で搗くよりも人の搗いたのを買うということになる。その代りに自分は自分で米を搗き自分で着物を織ると同程度の或る専門的・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・と訊ねられるとしても、私はその中のどちらだとも云い切る訳に行かない。私は自分でも此問題、此事件を、十年の間と云うもの、或時はフト「俺も怖ろしいことの体験者だなあ」と思ったり、又或時は「だが、此事はほんの俺の幻想に過ぎないんじゃないか、ただそ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「なに、おれの宝石を切るのだと。そんな事が出来るものか。それは誰にも出来ぬ。第一おれが不承知だ。こんな美しい物を。これはおれの物だ。誰にも指もささせぬ。おれが大事にしている。側に寄るな。寄るとあぶないぞ。」手には小刀が光っている。 爺い・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・然るに今新に書を著わし、盗賊又は乱暴者あらば之を取押えたる上にて、打つなり斬るなり思う存分にして懲らしめよ。況んや親の敵は不倶戴天の讐なり。政府の手を煩わすに及ばず、孝子の義務として之を討取る可し。曾我の五郎十郎こそ千載の誉れ、末代の手本な・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・外には活溌にして内には懶惰、台所の有様を知らず、玄関の事情を知らず、子供の何を喰らい何を着るを知らず、家族召使の何を楽しみ何を苦しむを知らず。早朝に家を出て夜に入らざれば帰らず。あるいは夜分に外出することあり、不意に旅行することあり。主人は・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
出典:青空文庫