・・・ 洋一は内心ぎょっとした。と同時にあの眼つきが、――母を撲とうとした兄の眼つきが、はっきり記憶に浮ぶのを感じた。が、そっと兄の容子を見ると、兄は遠くへ眼をやりながら、何事もないように歩いていた。―― そんな事を考えると、兄がすぐに帰・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そこで、彼は、いささか、ぎょっとしながら、恐る恐る、見るような、見ないような顔をして、そっとその人間を窺って見た。 垢じみた道服を着て、鳥が巣をくいそうな頭をした、見苦しい老人である。(ははあ、乞丐瘠せた膝を、両腕で抱くようにして、その・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・その時は気のせいか、額へ羽搏った蝶の形が、冷やかに澄んだ夕暮の空気を、烏ほどの大きさに切抜いたかと思いましたが、ぎょっとして思わず足を止めると、そのまますっと小さくなって、互にからみ合いながら、見る見る空の色に紛れてしまいました。重ね重ねの・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・妻がぎょっとするはずみに背の赤坊も眼を覚して泣き出した。帳場にいた二人の男は飛び上らんばかりに驚いてこちらを見た。そこには彼れと妻とが泣く赤坊の始末もせずにのそりと突立っていた。「何んだ手前たちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ クララはぎょっとして更めて聖者を見た。フランシスは激しい心の動揺から咄嗟の間に立ちなおっていた。「そんなに驚かないでもいい」 そういって静かに眼を閉じた。 クララは自分で知らなかった自分の秘密をその時フランシスによって甫め・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・私はその時、ぎょっとして無劫の世界を眼前に見る。 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにも倦きはてる程夥しくある事柄の一つに過ぎないからだ。そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。それ・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 燕はおどろいてその由を王子に申しますと、王子もたいそうおおどろきになって、「それは霜というもので――霜と言う声を聞くと燕は葦の言った事を思い出してぎょっとしました。葦はなんと言ったか覚えていますか――冬の来た証拠だ、まあ自分とした・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・ と小児に打たせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして退った。 檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦朧として頭の円い、袖の平たい、入道であった。 女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。 時に身じろぎをしたと覚し・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・その蝋燭が滑々と手に触る、……扱帯の下に五六本、襟の裏にも、乳の下にも、幾本となく忍ばしてあるので、ぎょっとしました。残らず、一度は神仏の目の前で燃え輝いたのでございましょう、……中には、口にするのも憚る、荒神も少くはありません。 ばか・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが――別に猿というに驚くこともなし、また猿の面の赤いのに不思議はないがな、源助。 どれもこれも、どうだ、その総身の毛が真赤だろう。 しかも数が、そこへ来た五六十疋と・・・ 泉鏡花 「朱日記」
出典:青空文庫