・・・ かの男はと見ると、ちょうどその順が来たのかどうか、くしゃくしゃと両手で頭髪を掻しゃなぐる、中折帽も床に落ちた、夢中で引ひんむしる。「革鞄に挟った。」「どうしてな。」 と二三人立掛ける。 窓へ、や、えんこらさ、と攀上った・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・が、形は著しいものではない、胸をくしゃくしゃと折って、坊主頭を、がく、と俯向けて唄うので、頸を抽いた転軫に掛る手つきは、鬼が角を弾くと言わば厳めしい、むしろ黒猫が居て顔を洗うというのに適する。――なから舞いたりしに、御輿の岳、愛宕山・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・と主人は、目鼻をくしゃくしゃとさせて苦笑して、茶の中折帽を被り直した。「はやい方が可い、聞くのに――」けれども山吹と藤のほか、村路の午静に、渠等を差覗く鳥の影もなかった。そのかわり、町の出はずれを国道へついて左へ折曲ろうとする角家の小店の前・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ふふん、と鼻の音をさせて、膝の下へ組手のまま、腰を振って、さあ、たしか鍋の列のちょうど土間へ曲角の、火の気の赫と強い、その鍋の前へ立つと、しゃんと伸びて、肱を張り、湯気のむらむらと立つ中へ、いきなり、くしゃくしゃの顔を突込んだ。 が、ば・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・と、おばあさんは目をくしゃくしゃさしてききました。「おばあさん、私ですよ。いつかお祭りのとき雨が降って買われなかったので、今晩買いにきたのです。」と、あや子は答えました。「あ、そうですか。」と、おばあさんは思い出したとみえて、うなず・・・ 小川未明 「海ほおずき」
・・・大森は机に向かって電報用紙に万年筆で電文をしたためているところ、客は上着を脱いでチョッキ一つになり、しきりに書類を調べているところ、煙草盆には埃及煙草の吸いがらがくしゃくしゃに突きこんである。 大森は名刺を受けとってお清の口上をみなまで・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・たるの中には、かんなくずや砂なぞがくしゃくしゃにはいっています。そのかんなくずの上に、何だかしゅろであんだ、ぼろぼろの靴ぬぐいをまるめ上げたような、そういう色とかっこうをしたものがころがっています。犬は、そのへんなもののまえに、くわえて来た・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・ 井伏さんも、少し元気を取り戻したようで、握り飯など召し上りながら、原稿用紙の裏にこまかい字でくしゃくしゃと書く。私はそれを一字一字、別な原稿用紙に清書する。「ここは、どう書いたらいいものかな。」 井伏さんはときどき筆をやすめて・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・宿賃が心配で、原稿用紙の隅に、宿賃の計算ばかりくしゃくしゃ書き込んでは破り、ごろりと寝ころんだりしています。何しに、こんなところへ来たのだろう。実に、むだな事をしました。貧乏そだちの私にとっては、ほとんどはじめての温泉旅行だったのですが、ど・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・その原稿は、洋箋に、米つぶくらいの小さい字で、くしゃくしゃに書かれて在るもので、ずいぶん長いものもあれば、洋箋二枚くらいの短篇もある。私は、それを真剣に読む。よくないのである。その紙に書かれてある戦地風景は、私が陋屋の机に頬杖ついて空想する・・・ 太宰治 「鴎」
出典:青空文庫