・・・ カーライルは何のためにこの天に近き一室の経営に苦心したか。彼は彼の文章の示すごとく電光的の人であった。彼の癇癖は彼の身辺を囲繞して無遠慮に起る音響を無心に聞き流して著作に耽るの余裕を与えなかったと見える。洋琴の声、犬の声、鶏の声、鸚鵡・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・は些と不都合にして、これを譬えば、ここに高きものと低きものと二様ありて、いずれも程好き中を得ざるゆえ、これを矯め直さんとして、ひたすらその低きものを助け、いかようにもしてこれを高くせんとて、ただ一方に苦心するのみにして、他の一方の高きに過ぐ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・――その時はツルゲーネフに非常な尊敬をもってた時だから、ああいう大家の苦心の作を、私共の手にかけて滅茶々々にして了うのは相済まん訳だ、だから、とても精神は伝える事が出来んとしても、せめて形なと、原形のまま日本へ移したら、露語を読めぬ人も幾分・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・わたくしはただいま書く事をどう書いたら、あなたがお分かりになるだろうかと存じて、それに苦心をいたします。 ピエエルさん。何よりさきにあなたに申さなくてはならないのは、あなたのお作の中に出て来る女とわたくしとは違うと申す事でございます。何・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・と短く言いしもの、良工苦心のところならんか。「鮎くれて」の句、かくのごとき意匠は古来なきところ、よしありたりとも「よらで過ぎ行く」とは言い得ざりしなり。常人をして言わしめば鮎くれしを主にして言うべし。そは平凡なり。よらで過ぎ行くところ、・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ ところが仲々、お役人方の苦心は、新聞に出ているくらいのものではありませんでした。その研究中の一つのはなしです。 工芸学校の先生は、まず昔の古い記録に眼をつけたのでした。そして図書館の二階で、毎日黄いろに古びた写本をしらべているうち・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・去年の初夏、日本出版協会は『テラス』『ロマンス』などからはじまってとくに猥雑なエログロ出版の氾濫を整理しようとして苦心したことがあります。出版綱領実践委員会が集って日本の出版の浄化のために幾たびか協議しました。その過程で非常に注目すべきこと・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
一 ファウストを訳した時の苦心を話すことを、東亜之光の編者に勧められた。然るに私は余り苦心していない。少くも話の種にする程、苦心していない。こう云うのがえらがるのでないことは勿論である。また過誤のあった時、分疏をするために予め地・・・ 森鴎外 「不苦心談」
・・・題材の持ち得る一番困難なところが一つも書いてはなくて、どうすれば成功するかという苦心の方が目立ってきて、完璧になっている。いいかえれば一番に失敗をしているのだ。佐助の眼を突く心理を少しも書かずに、あの作を救おうという大望の前で、作者の顔はこ・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・また透明であればあるほどそこにガラスのあることが気づかれないと同様に、透明な表現もその表現の苦心とか巧みさとかを意識させず、ただ端的に表現されたものに直面せしめる。それに反して警抜な表現とか巧みさを感じさせる言い回しとかは、ちょうど色のつい・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫