・・・はじめ、連立って、ここへ庭樹の多い士族町を通る間に――その昔、江戸護持院ヶ原の野仏だった地蔵様が、負われて行こう……と朧夜にニコリと笑って申されたを、通りがかった当藩三百石、究竟の勇士が、そのまま中仙道北陸道を負い通いて帰国した、と言伝えて・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・帽子は被らず、頭髪を蓬々と抓み棄てたが、目鼻立の凜々しい、頬は窶れたが、屈強な壮佼。 渋色の逞しき手に、赤錆ついた大出刃を不器用に引握って、裸体の婦の胴中を切放して燻したような、赤肉と黒の皮と、ずたずたに、血筋を縢った中に、骨の薄く見え・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・ この徳二郎という男はそのころ二十五歳ぐらい、屈強な若者で、叔父の家には十一二の年から使われている孤児である。色の浅黒い、輪郭の正しい立派な男、酒を飲めば必ず歌う、飲まざるもまた歌いながら働くという至極元気のよい男であった。いつも楽しそ・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・二十四、五かと思われる屈強な壮漢が手綱を牽いて僕らの方を見向きもしないで通ってゆくのを僕はじっとみつめていた。夕月の光を背にしていたからその横顔もはっきりとは知れなかったがそのたくましげな体躯の黒い輪郭が今も僕の目の底に残っている。『僕・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・倫理はこの人格価値感情を究竟の目的とすべきである。物の価値はただこの人格価値の手段としてのみ価値を持つのにすぎぬ。が人格価値はそれ自らの価値である。この人格価値を高めることが行為の目的である。快楽、幸福、福利は目的そのものとして追求せられる・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 彼は世界と人倫との究竟の理法と依拠とを求めずにはいられなかった。当時の学問と思想との文化的所与の下に、彼がそれを仏法に求めたのは当然であった。しかし仏法とは一体何であろう。当時の仏教は倶舎、律、真言、法相、三論、華厳、浄土、禅等と、八・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・人は知性と、一般に思想とを究竟のものと思ってはならないのである。人間の宇宙との一致、人間存在の最後の立命は知性と思想とをこえた境地である。いと高く、美しき思想もそれが思想である限りは、「なくてならぬ究竟唯一」のものではない。書物は究竟者その・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・その弟も屈強な若い百姓だ。 兄弟の働いている側で先生方は町の人達にも逢った。人々の話は鉱泉の性質、新浴場の設計などで持切った。千曲川への水泳の序に、見に来る町の子供等もあった。中には塾の生徒も遊びに来ていて、先生方の方へ向って御辞儀した・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ しかしこういうあらゆる杖に比べると、いわゆるステッキほどわけのわからない品物はないと思われる。屈強の青壮年が体重をささえるために支柱とするはずはないからである。もっとも銀座アルプスのデパートの階段などを上る時は多少の助けになるかもしれ・・・ 寺田寅彦 「ステッキ」
・・・もう一歩根本的に考えてみると畢竟わが国において火災特に大火災というものに関する科学的基礎的の研究がほとんどまるきりできていないということが究竟の原因であると思われる。そうして、この根本原因の存続する限りは、将来いつなんどきでも適当な必要条件・・・ 寺田寅彦 「函館の大火について」
出典:青空文庫