・・・けれども、物をはねとばさぬばかりのひどい見幕でやって来る憲兵を見ると、自分が罪人になったような動揺を感ぜずにはいられなかった。 憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の姓名を呼んだ。彼は、心でそのいかめしさに反撥しながら、知ら・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・なんぞという英物が出て来る、「乃公はそんなら本紀列伝を併せて一ト月に研究し尽すぞ」という豪傑が現われる。そんな工合で互に励み合うので、ナマケル奴は勝手にナマケて居るのでいつまでも上達せぬ代り、勉強するものはズンズン上達して、公平に評すれば畸・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・そういうところへ誰かが出て来ると、さあ周章て鉄砲を隠す、本を繰る、生憎開けたところと読んで居るところと違って居るのが見あらわされると大叱言を頂戴した。ああ、左様々々、まだ其頃のことで能く記臆して居ることがあります。前申した會田という人の許へ・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ 否な、人間の死は科学の理論を俟つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、何人も争う可らざる事実ではない歟、死の来るのは一個の例外を許さない、死に面しては貴賎・貧富も善悪・邪正も知愚・賢不肖も平等一如である、何者の知恵も遁が・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・それが来ると、母親はお安に声を出して読ませた。それから次の日にモウ一度読ませた。次の手紙が来る迄、その同じ手紙を何べんも読むことにした。 * とり入れの済んだ頃、母親とお安は面会に出てきた。母親は汽車の中で、始終手拭・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・へ篠を束ねて降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊雄はただもじもじと箸も取らずお銚子の代り目と出て行く後影を見澄まし洗濯はこの間と怪しげなる薄鼠色の栗のきんとんを一ツ頬張ったるが関の山、梯子段を登り来る足音の早いに驚いてあわてて嚥み下し物・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・七「なに、これで沢山だ、悪いと云えば帰って来る」 と無慾の人だから少しも構いませんで、番町の石川という御旗下の邸へ往くと、お客来で、七兵衞は常々御贔屓だから、殿「直にこれへ……金田氏貴公も予て此の七兵衞は御存じだろう、不断はまる・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・そう言えば、長く都会に住んで見るほどのもので、町中に来る夏の親しみを覚えないものはなかろうが、夏はわたしも好きで、種々な景物や情趣がわたしの心を楽しませる上に、暑くても何でも一年のうちで一番よく働ける書入れ時のように思い、これまで殆んど避暑・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・閉めてあった雨戸を繰ると、対岸の崖の上にある村落、耕地、その下を奔り流れる千曲川が青畳の上から望まれた。 高瀬は欄のところへ行って、川向うから伝わって来る幽かな鶏の声を聞いた。先生も一緒に立って眺めた。「高瀬さん、この家は見覚えがあ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・同情する自分と同情される他者との矛盾が、死ぬか生きるかの境まで来ると、そろそろ本体を暴露して来はしないか。まず多くの場合に自分が生きる。よっぽど濃密の関係で自分と他者と転倒しているくらいの場合に、いわば病的に自分が死ぬる。または極局身後の不・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫