・・・さ、いッくらでも殴ぐれ、今お前えらば訴えてやるからッて怒鳴ってやった。んでも、何んぼしても面会ば許さないんだ。それから裁判所へ廻ってから面会させてもらったら、その時はホウ帯ば外していたがどうしたんだと訊いたら、看守の方ば見て、耳が悪かったん・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・男の子は、日ぐれだから金の窓もしめるのだなと思って、じぶんもお家へかえって、牛乳とパンを食べて寝るのでした。 或日お父さんは、男の子をよんで、「おまいはほんとによくはたらいておくれだ。そのごほうびに、きょうは一日おひまを上げるから、・・・ 鈴木三重吉 「岡の家」
・・・ゆふしぐれ。 同よる。ばくちを、うつ。○同二十九日。けいこ、一つ。○同三十日。おかやわ、ふびんなり。あまりのことなれば、かくここに、しるす。みのこくより、けいこ。じゆの一、さみせん、きくのつゆ。おさわ、琴にて、馬追ひ。○十・・・ 太宰治 「盲人独笑」
・・・いまだその形を見たるものなく、その物は夜半にジャーンと鳴り響きて海上を過ぎ行くなりけり、漁業をして世を渡るどちに、夜半に小舟浮かべて、あるは釣りをたれ、あるいは網を打ちて幸多かるも、このも海上を行き過ぐればたちまちに魚騒ぎ走りて、時を移すと・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・一例を挙ぐれば、学者は掌中の球を机上に落す時これが垂直に落下すべしと予言す。しかるに偶然窓より強き風が吹き込みて球が横に外れたりとせよ。俗人の眼より見ればこの予言は外れたりと云う外なかるべし。しかし学者は初め不言裡に「かくのごとき風なき時は・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・山崎を過ぐれば与一兵衛の家はと聞けど知る人なし。勘平らしき男も見えず、ただ隣りの男の眼付やゝ定九郎らしきばかりなり。五十くらいの田舎女の櫛取り出して頻りに髪梳るをどちらまでと問えば「京まで行くのでがんす。息子が来いと云いますのでなあ」と言葉・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・千住よりの小蒸気けたゝましき笛ならして過ぐれば余波舷をあおる事少時。乗客間もなく満ちて船は中流に出でたり。雨催の空濁江に映りて、堤下の杭に漣れんい寄するも、蘆荻の声静かなりし昔の様尋ぬるに由なく、渡番小屋にペンキ塗の広告看板かゝりては簑打ち・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・二三日またぐれだして、保険会社の男とかと、始終どこかへ入り浸っていた。 お絹はぶつぶつ言っていた。「この家は、これでいったいなり立ってゆくのかね」道太はおせっかいに訊いた。「さあどうやら、見こみないでしょう。私厭だと言ったんだけ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ 明治年間池塘に居を卜した名士にして、わたくしの伝聞する所の者を挙ぐれば既に述べた福地桜痴小野湖山の他には篆刻家中井敬所と箕作秋坪との二人があるのみである。 わたくしは甚散漫ながら以上の如く明治年間の上野公園について見聞する所を述べ・・・ 永井荷風 「上野」
・・・春雨の格子戸に渋蛇の目開きかける様子といい、長火鉢の向うに長煙管取り上げる手付きといい、物思う夕まぐれ襟に埋める頤といい、さては唯風に吹かれる髪の毛の一筋、そら解けの帯の端にさえ、いうばかりなき風情が生ずる。「ふぜい」とは何ぞ。芸術的洗練を・・・ 永井荷風 「妾宅」
出典:青空文庫