・・・ しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。見えないどころか唇には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。「お前さんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」「嘘をつ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・まだ前髪の残っている、女のような非力の求馬は、左近をも一行に加えたい気色を隠す事が出来なかったのであった。左近は喜びの余り眼に涙を浮べて、喜三郎にさえ何度となく礼の言葉を繰返していた。 一行四人は兵衛の妹壻が浅野家の家中にある事を知って・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・「あの頃の大川の夕景色は、たとい昔の風流には及ばなかったかも知れませんが、それでもなお、どこか浮世絵じみた美しさが残っていたものです。現にその日も万八の下を大川筋へ出て見ますと、大きく墨をなすったような両国橋の欄干が、仲秋のかすかな夕明・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・面白くない勝負をして焦立った仁右衛門の腹の中とは全く裏合せな煮え切らない景色だった。彼れは何か思い切った事をしてでも胸をすかせたく思った。丁度自分の畑の所まで来ると佐藤の年嵩の子供が三人学校の帰途と見えて、荷物を斜に背中に背負って、頭からぐ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・クサカは相変らず翻筋斗をしたり、後脚を軸にしてくるくる廻ったりして居るのだ、しかし誰もこの犬の目に表われて居る哀願するような気色を見るものはない。大人でも子供でも「クサチュカ、またやって御覧」という度に、犬は翻筋斗をしてくるくる廻って、しま・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 長閑に、静な景色であった。 と炎天に夢を見る様に、恍惚と松の梢に藤の紫を思ったのが、にわかに驚く! その次なる烏賊の芸当。 鳶職というのを思うにつけ、学生のその迫った眉はたちまち暗かった。 松野謹三、渠は去年の秋、故郷の家・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・――船大工が謡を唄う――ちょっと余所にはない気色だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤である。 脊の伸びたのが枯交り、疎になって、蘆が続く……傍の木納屋、苫屋の袖には、しおらしく嫁菜の花が・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 劇壇の女王は、気色した。「いやにお茶がってるよ、生意気な。」と、軽くその頭を掌で叩き放しに、衝と広前を切れて、坂に出て、見返りもしないで、さてやがてこの茶屋に憩ったのであった。―― 今思うと、手を触れた稚児の頭も、女か、男か、・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・東側は神社と寺との木立ちにつづいて冬のはじめとはいえ、色づいた木の葉が散らずにあるので、いっそう景色がひきたって見える。「じいさん、ここから見ると舟津はじつにえい景色だね!」「ヘイ、お富士山はあれ、あっこに秦皮の森があります。ちょう・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・その頃どこかの気紛れの外国人がジオラマの古物を横浜に持って来たのを椿岳は早速買込んで、唯我教信と相談して伝法院の庭続きの茶畑を拓き、西洋型の船に擬えた大きな小屋を建て、舷側の明り窓から西洋の景色や戦争の油画を覗かせるという趣向の見世物を拵え・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫