・・・甲板を下駄で蹴りながら、昨日稽古した「エコー」と云うのを歌う。室へ入ろうとするといつの間にか商人体の男二人その連れらしき娘一人室へいっぱいになって『風俗画報』か何か見ているので、また甲板をあちこち。機関長室からハイカラ先生の鼠色のズボンが片・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・同席なりし東も来り野並も来る。 こゝへ新に入り来りし二人連れはいずれ新婚旅行と見らるゝ御出立。すじ向いに座を構えたまうを帽の庇よりうかゞい奉れば、花の御かんばせすこし痩せたまいて時々小声に何をか物語りたまう双頬に薄紅さして面はゆげなり。・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 夜になって、高坂の工場へいって、板の間の隅で、“来り聴け! 社会問題大演説会”などと、赤丸つきのポスターを書いていると、硝子戸のむこうの帳場で、五高生の古藤や、浅川やなどを相手に、高坂がもちまえの、呂音のひびく大声でどなっている。そし・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ わたくしはこの年から五、六年、図らずも旅の人となったが、明治四十一年の秋、重ねて来り見るに及んで、転た前度の劉郎たる思いをなさねばならなかった。仲の町にはビーヤホールが出来て、「秋信先通ず両行の燈影」というような町の眺めの調和が破られ・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・ででもあるのか、平袖の貸浴衣に羽織も着ず裾をまくり上げて団扇で脛をあおいでいる者もあり、又西洋人の中には植民地に於てのみ見受けられる雑種児にして、其風采容貌の欧洲本土に在っては決して見られない者も多く来り集っていた。其夜演奏が畢って劇場を出・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・れうれしやと思う間もなく鉄道馬車は前進し始める、馬は驚ろいて吾輩の自転車を蹴飛す、相手の自転車は何喰わぬ顔ですうと抜けて行く、間の抜さ加減は尋常一様にあらず、この時派出やかなるギグに乗って後ろから馳け来りたる一個の紳士、策を揚げざまに余が方・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・年来自分が考えたまた自分が多少実行し来りたる処世の方針はどこへ行った。前後を切断せよ、妄りに過去に執着するなかれ、いたずらに将来に望を属するなかれ、満身の力をこめて現在に働けというのが乃公の主義なのである。しかるに国へ帰れば楽ができるからそ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・ただ余の出立の朝、君は篋底を探りて一束の草稿を持ち来りて、亡児の終焉記なればとて余に示された、かつ今度出版すべき文学史をば亡児の記念としたいとのこと、及び余にも何か書き添えてくれよということをも話された。君と余と相遇うて亡児の事を話さなかっ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・と、しばらくしてこう叫んだ善吉は、涙一杯の眼で天井を見つめて、布団を二三度蹴りに蹴った。「おや、何をしていらッしゃるの」 いつの間に人が来たのか。人が何を言ッたのか。とにかく人の声がしたので、善吉はびッくりして起き上ッて、じッとその・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・く、曾て行儀を乱りたることなく、一見甚だ美なるに似たれども、気の毒なるは主人公の身持不行儀にして婬行を恣にし、内に妾を飼い外に賤業婦を弄ぶのみか、此男は某地方出身の者にて、郷里に正当の妻を遺し、東京に来りて更らに第二の妻と結婚して、所謂一妻・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫