・・・おれはまだ康頼くらい、現金な男は見た事がない。」「それでも莫迦にはなりません。都の噂ではその卒塔婆が、熊野にも一本、厳島にも一本、流れ寄ったとか申していました。」「千本の中には一本や二本、日本の土地へも着きそうなものじゃ。ほんとうに・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ペテンにかけられた雑穀屋をはじめ諸商人は貸金の元金は愚か利子さえ出させる事が出来なかった。 「まだか」、この名は村中に恐怖を播いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえ疾の昔に仁右衛門の保証を取消して、仁右・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・「いいえ、ゆうべこれに負けたんで、現金がないと、さ」「馬鹿野郎! だまされていやアがる」僕は僕のことでも頼んで出来なかったものを責めるような気になっていた。「本統よ、そんなにうそがつける男じゃアないの」「のろけていやがれ、お・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「――十人家族で、百円の現金もなくて、一家自殺をしようとしているところへ、千円分の証紙が廻ってくる。貼る金がないから、売るわけだね。百円紙幣の証紙なら三十円の旧券で買う奴もあるだろう。すると十枚で三百円だ。この旧券の三百円を預けるとその・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・もっとも手ぐらいは握っても、それ以上の振舞いに出なければ構わぬだろうという現金な考えを持っていたかも知れない。 何れにしても、彼等は尻尾を出さなければ必ず出世できるという幸運を約束されているという点で、一致していた。後年私は、新聞紙上で・・・ 織田作之助 「髪」
・・・酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒の本鋪から、看板を寄贈してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空しく押入れにしまったままだった。こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・見料一人三十銭、三人分で……と細かく計算するのも浅ましいが、合計九十銭の現金では大晦日は越せない、と思えば、何が降ってもそこを動かない覚悟だった。家には一銭の現金もない筈だ。いろんな払いも滞っている。だから、珈琲どころではないのだ。おまけに・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ こんなことなれば、もっと早く小説を書いて置けばよかったと、現金に考えた。八年も劇を勉強して純粋戯曲論などに凝っている間に、小説を勉強して置けばよかったと、私は未だ読みもせぬ小説家の数を数えて、何か取りかえしのつかぬ気がした。けれど、八・・・ 織田作之助 「わが文学修業」
・・・敷地の買上、その代価の交渉、受負師との掛引、割当てた寄附金の取立、現金の始末まで自分に為せられるので、自然と算盤が机の上に置れ通し。持前の性分、間に合わして置くことが出来ず、朝から寝るまで心配の絶えないところへ、母と妹とが堕落の件。殊に又ぞ・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・残飯は一粒と雖も、やることは絶対にならん。厳禁してくれ。」「はい。」「よし、それだけだ。」 副官が、命令を達するために、次の部屋へ引き下ると、彼はまた叫んだ。「副官!」「はい。」「この点呼に、もしもおくれる者があった・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫