・・・ もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさえ、気味の悪い夢が薄れるように、見る見る消え失せてしまうのです。「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼が死んだ兄に似ていると思った眼で、厳にじっと見たのである。「行けと云うなら、行かぬでもないが、その代り、その方はわしの帰るまで、待って居れよ。」――クリストの眼を見ると共に、彼はこう云う語が、熱風よりもはげしく、刹那に彼の心へ焼けつくよう・・・ 芥川竜之介 「さまよえる猶太人」
・・・多門には寛に失した代りに、数馬には厳に過ぎたのでございまする。」 三右衛門はまた言葉を切った。が、治修は黙然と耳を傾けているばかりだった。「二人は正眼に構えたまま、どちらからも最初にしかけずに居りました。その内に多門は隙を見たのか、・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・われ、その時、宗門の戒法を説き、かつ厳に警めけるは、「その声こそ、一定悪魔の所為とは覚えたれ。総じてこの「じゃぼ」には、七つの恐しき罪に人間を誘う力あり、一に驕慢、二に憤怒、三に嫉妬、四に貪望、五に色欲、六に餮饕、七に懈怠、一つとして堕獄の・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・その中で彼れは快い夢に入ったり、面白い現に出たりした。 仁右衛門はふと熟睡から破られて眼をさました。その眼にはすぐ川森爺さんの真面目くさった一徹な顔が写った。仁右衛門の軽い気分にはその顔が如何にもおかしかったので、彼れは起き上りながら声・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月、寝ても覚ても、夢に、現に、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべき言を未だ知らずにいたから。 さりながら、さりながら、「立花さん、これが貴下の望じゃないの、天下・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ と厳に袖に笏を立てて、「恐多いが、思召じゃとそう思え。誰が、着るよ、この白痴、蜘蛛の巣を。」「綺麗なのう、若い婦人じゃい。」「何。」「綺麗な若い婦人は、お姫様じゃろがい、そのお姫様が着さっしゃるよ。」「天井か、縁の・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息を病んだように響かせながら、猟夫に真裸になれ、と歯茎を緊めて厳に言った。経帷子にでも着換えるのか、そ・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ この写真が、いま言った百人一首の歌留多のように見えるまで、御堂は、金碧蒼然としつつ、漆と朱の光を沈めて、月影に青い錦を見るばかり、厳に端しく、清らかである。 御厨子の前は、縦に二十間がほど、五壇に組んで、紅の袴、白衣の官女、烏帽子・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ かねて信心する養安寺村の蛇王権現にお詣りをして、帰りに北の幸谷なるお千代の里へ廻り、晩くなれば里に一宿してくるというに、お千代の計らいがあるのである。 その日は朝も早めに起き、二人して朝の事一通りを片づけ、互いに髪を結い合う。おと・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
出典:青空文庫